「批判的破壊力」を持った「使える資本論」再び マルクス研究の若き俊英が考える「魂の包摂」
だが、この「包摂」を、工場のなかでの労働に限定する必要はない。『武器としての「資本論」』によれば、「包摂」はいまや社会全体へと広がっており、私たちの価値観や感性までも、資本の論理によって完全にとらわれてしまうようになっているというのである。
新自由主義のもとで、「自己責任」の言説を受け入れ、意味もないオンラインサロンに高いお金をつぎ込んで、自分に「投資」を行い、「人材」としての市場価値を高めようとする。世間で金太郎あめのような内容のないビジネス本が売れているのは、資本による「人間の魂、全存在の包摂」が完成してしまっているからなのである。
だが、「全存在の包摂」が完成してしまったら、もはや抵抗の余地はないのではないか? これからずっと資本の「奴隷」として生きていくしかないのか? 労働組合も衰退し、「階級闘争」なんて、もう考えることもできない。日本社会の現状を見ていると、そんなふうに悲観的に考えてしまう人も少なくないはずだ。
マルクスの鉱脈に眠る「武器」を掘り起こす
にもかかわらず、必ずしもそうではない、とこの本を最後まで読むと、しっかりと勇気づけられる。私たちの自由な「感性」はまだ生きているのだ。
資本主義は、価値を増やすことを優先するので、その結果、私たちの生活レベルがどうなろうと気にしない。日々の生活に必要な食料、教育、医療などの質が劣化したとしても、金儲けのチャンスが生じるなら、資本はその道を選ぼうとする。
それにストップをかけられるとしたら、「物質代謝の攪乱」から生じる生活レベルの劣化を我慢ならない、耐えられないと感じる人間の力しかない。「それで我慢しろ」という資本に対して、「それではいやだ!」と私たちが声を上げることが、新たな階級闘争に発展する可能性を秘めているというのである。
『フツーの仕事がしたい』は、昨年亡くなったトラック運転手の皆倉信和さんの闘いを追ったドキュメンタリー映画のタイトルだった。非正規労働やブラック企業が蔓延する現代日本の新自由主義社会においては、この「フツーの仕事がしたい」「フツーの生活がしたい」という欲求が社会変革の足がかりになるのである。本書は、その変革のための大いなる武器なのだ。
そして、気候変動に代表される環境危機が急速に深刻化している今、1%の富裕層をのぞく、あらゆる人が「フツーの生活」を諦め、生存のレベルで闘わなくてはならない段階が刻々と迫っている。この危機を乗り越えるためには、新自由主義にとどまらず、資本主義そのものを終わらせる必要がある。
マルクスの物質代謝論が示すように、そのための武器も、『資本論』に眠っている。環境危機の時代に、マルクスを読み直すことは、これまで完全に見逃されてきたマルクスの理論を明らかにするだろう。
『武器としての「資本論」』が多くの人に共感をもって読まれているのを見て、マルクスが現代の人々の意識をも変える、色褪せない力をもっていることを再認識した。それは私にとっても励みになっている。
なぜなら私自身も、マルクスという鉱脈にいまだ眠っている「新しい武器」を呼び覚まし、その武器に鋭意、磨きをかけているところだからだ。『未来への大分岐』に続く、私なりの武器を公表できるまであと少し。それも待っていてほしい。
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