「批判的破壊力」を持った「使える資本論」再び マルクス研究の若き俊英が考える「魂の包摂」

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というのも、研究者は、読者がつまずく難しいところを丁寧に、しかも正しく説明しようとするからである。例えば、『資本論』第1巻冒頭の「価値形態論」は、その典型だろう。「価値形態論」は難しいとマルクスも言っている。でも、それが第1章でいきなり出てくる。

マルクスを深く知りたいと思っている人にとっては、この部分を丁寧に解説してくれる解説書はありがたいに違いない。研究者としても、ここは腕の見せ所である。

そうはいっても、「価値形態論」にスペースを割けば割くほど、そもそも、『資本論』をなぜ今読み直すべきかを知りたい人は、やっぱり抽象的で、退屈に感じてしまうだろう。マルクスのことを全然知らない人は、「価値形態論」がわかったところで、何の意味があるのかと言うだろう。

かといって、漫画『資本論』的な本でいいかと言えば、もちろん、そうはいかない。内容を単純化しすぎても、マルクスの理論がなぜ現代において読まれなくてはいけないのかがわからなくなってしまうのである。

入門書は、正確なだけでもダメで、わかりやすいだけでもダメなのだ。しかも、「武器」にするためには、現代でも批判的破壊力を持っていることを証明しなくてはならない。そんな難題を『武器としての「資本論」』は見事にやってのけるのである。

そして、新自由主義の矛盾が深化している現代日本社会において、なぜマルクスを再読すべきなのか、具体的事例を豊富に使いながら、非常にわかりやすく説明してくれるのだ(私も本書のエピソードで出てくる「寅さん」がなんで面白いのかよくわからなかったけれど、もう一度見てみようか、という気持ちになった)。

マルクスが論じていない現代の事象にも概念を拡張

個人的に興味深かったのは、マルクスの「物質代謝」論に依拠する形で、全体の議論が始まっていることである。

実は、「物質代謝」の概念に依拠して議論を展開するのは、それほど一般的なアプローチではない。例えば、宇野弘蔵、廣松渉、そして、柄谷行人という日本のマルクス主義者で最も有名な3人も、「物質代謝」概念を全然論じていない。ところが、近年、私も含め、マルクスの物質代謝論に着目する議論が、国内外でも、数多く現れるようになっているのである。

マルクスは「労働」を人間と自然の物質代謝を意識的に制御・媒介する行為として定義していた。だが、資本主義のもとで、労働力や土地を含めて、ありとあらゆるものが商品化されていく。その結果、この物質代謝がどのようにして変容され、攪乱されてしまうかを、マルクスは分析していたのである。

『武器としての「資本論」』は、このマルクスの物質代謝論を下敷きに、現代の新自由主義の矛盾を鋭くとらえていく。その際、マルクスのエッセンスをつかんでいるからこそ、マルクス自身が論じていない現代の事象にも、概念を拡張できる。それによって、マルクスの『資本論』が批判的思考のための武器であることを説得力ある形で示すのだ。

その一例が、「包摂」をめぐる議論だろう。マルクスが論じている「包摂」というのは、一般的に、資本が労働者たちに対する支配を確立するために行う労働過程の再編成を指す。例えば、ベルトコンベヤーを導入して、規則正しい、単調な作業を繰り返させるのが、典型的な「包摂」である。こうして、労働者は自律性を失っていき、資本の命令に従う従順な労働者になっていく。

次ページ「包摂」はいまや社会全体へと広がっている
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