岐路に立つEUは建国直後のアメリカに似ている 今ブームのハミルトンがEUに与えるヒント

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初代財務長官のアレキサンダー・ハミルトンは今も10ドル札の顔だ(写真:Buba1955/iStock)

ハミルトンは各州をより高い次元で結合し、恒久的な連邦体制を構築するには、連邦と州の債務を統合する必要があると考えた。連邦政府による州債引き受け案は、巨額の債務を抱えていたマサチューセッツ州などが支持した一方、大半の債務を償還済みだったバージニア州などの反発を招いた。

ハミルトンは反対派を説得するため、「債務は独立革命によって発生したものであるが、全アメリカ国民はこの革命で等しく利益を得ている以上、そうした負債には集団で責任を負うべきだ」(前掲書)との主張を展開した。だが、議会は結局、州債引き受け案を否決し、この問題に関するすべての議論を打ち切ることが決まった。

窮地に陥ったハミルトンは、首都の所在地を交換条件に、反対する南部諸州に州債引き受け案の受け入れを迫る妥協案を模索した。すでに州から分離した特別区を設置し首都とする方針が決まっていたが、具体的な場所の選定をめぐって盛んにロビー活動が行われていた。設置が決まった地域の周辺州は、人口や富の流入だけでなく連邦政府への影響力を高めることができる。

首都問題と州債引き受け案のバーター

ハミルトンはニューヨークを首都にしようと働きかけていたが、ジェファーソンはワシントン大統領の邸宅(バージニア州東部のマウントバーノン)近くに首都を構えようとした。

前掲書は、「この首都問題は、言い換えれば、アメリカが取るべき道は都市化か農業化かという問題だった。南部人の多くは、北部に首都を置けば都市部の豪商達は恩恵を得られるが、農民の生活は冷遇されると考えていた。南部の奴隷保持の現実といかに差があったにせよ、独立した小農場が集まった国、というジェファーソンの田園風景的な夢は、アメリカ人の心に大きな魅力として映った」と論じている。

1790年春、州債引き受け案と首都設置問題をめぐる両派の攻防は激しさを増し、北部諸州が連邦脱退の脅しをかけるまでに緊張した局面へと発展した。

そうしたなか、両派による歴史的な妥協(1790年の妥協)が交わされたのは、ジェファーソン宅で催された晩餐会の席である。ハミルトンがニューヨーク首都構想を諦める代わりに、ジェファーソンが州債引き受け案を受け入れた。

その際、南部諸州の懐柔策となったのが、フィラデルフィアを暫定首都とし、13州の南部に位置するポトマック河畔の土地に永久首都を設置する案だった。これが、建国直後のアメリカが分裂の危機を免れ、ワシントンD.C.がアメリカの首都に決まった顛末だ。

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