ショウタさんの半生は壮絶だが、話しぶりは終始優しく、朗らかだった。自分が赤ん坊のころの写真は隣人や母親の知人などいろいろな人に抱っこされているものが多いと言い、その理由を「母親が明るい性格なんです。周囲を巻き込む力がある」と誇らしげに語る。
幼少時の虐待についても「行為の意味がわからなかったので、(養父を)憎む気にはなれないんです。むしろ性風俗で働いていたときのほうが精神的につらかった」と言う。
取材ではむしろ私のほうが怒っていた。とくにショウタさんが受けた人種差別には反吐が出る思いしかない。取材で出会う在日外国人からはたびたび「初めての差別体験は教師によるものだった」との話を耳にするが、残念ながらショウタさんも例外ではなかったわけだ。
「貧困ではあったが、不幸ではない」
怒る私に対し、ショウタさんは「当時、母親が言葉が不自由だったのは事実。争ったりしないで『ごめんなさい、もう少しゆっくり話してくれますか』とか穏やかに言えばいいんです。僕だったらそうするな」と言う。
これに対し、私が「『フィリピン人だから』という物言いがアウト。お母さんがアメリカ人やフランス人だったら、先生たちは同じ態度を取ったと思いますか」と尋ねると、ショウタさんは「まあ、たしかにそうかもしれませんね」と言う。ショウタさんが間違っているのではない。差別される側に、差別される理由を探させる社会がろくでもないのだ。
日本には外国人差別はないという人は論外として。「努力して差別されないようにしている外国人もいる」「私の周りの外国人はみんなうまくやっている」という人は少なくない。こうした物言いに対して私は「So what?」と返したい。それは白人至上主義者の典型的な言い訳である「I have a black friend」と同じくらい不毛なことだ。日本人はいま少し「差別する側の日本人」という醜悪な現実に目を向けるべきだろう。
私の怒りをよそに、ショウタさんはそれまでの人生を「貧困ではあったが、不幸ではない」と言う。お金があれば、自分が持つ突出した才能のいずれかを伸ばすことはできたかもしれない。でも、それはこれからでもできるというのだ。
ゲイであることは母親にだけカムアウトしたが、宗教的な理由から受け入れてはもらえていない。あからさまに否定されることはなかったものの、今も時々「孫はまだ?」と聞かれるという。一方で、ショウタさんには同棲して6年になるパートナーがいる。プライベートは充実しているように見えた。
運転が得意なのでタクシーの運転手もいい。ハードウェア関係の仕事もできるだろう。語学を究めたい気持ちもある。今クラリネットを勉強しているので、いつか人前で演奏できたらいいと思う。以前、高校の教員補助のアルバイトをしたことがあるが、人に教える仕事も向いているなと感じたという。
「人生の最後に笑っていられればいい」。ショウタさんはそう言った。
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