競走馬のように走り続ける現代人の「教養」信仰 希代の勝負師が語る本物の教養、偽物の教養
例えばあなたの友人が失恋して落ち込んでいるときに、その人の言うことを親身に聞いて、何か気の利いた言葉をかけてあげられるか? 自分の子どもが学校でいじめにあっている。悩み傷ついている子どもを救うことができる言葉を投げかけてあげられるか? 身の回りの大切な人たちがピンチのとき、はたしてあなたはどんな言葉をかけてやることができるだろうか。
ただ「頑張れ」とか「努力しろ」とか、誰でも言えるようなありきたりの言葉じゃなく、自分の言葉で語れるか。それによって少しでも相手を楽にしてやれるかどうか。
そんな気の利いた自分なりの言葉を持ち、説得力を持って示すことができる力。それこそが本当の「教養」なんだと思う。
必要なものはすでに与えられている
あるいは道を歩いていて、前から来る人の足取りがおぼつかない。もしかすると彼は転んじゃうかもしれない。そんな想像や予想をして、いざというときに備えて準備しておく。すると案の上、その人はよろめいて転びそうになる。あらかじめ準備ができていたあなたは、体が自然と動いて、その人を支えることができた。
これも私に言わせれば、立派な教養人だ。いざというときのことを予測し、自分がなすべきことをあらかじめ察知できる知性と能力。これも自分ではなく、目の前にいる誰かを救っている。
「気づき」は相手に対する思いやりにつながる。それが相手を支え、助けることにつながる。気づきがなければ、相手が欲しているものを察知し、相手が嫌がることを理解してやることもできない。だから、古今東西の名著を読み込み、あらゆる芸術を見たとしても、基本の「気づき」がなければ、そんなものはただの知識のガラクタ、残骸にすぎない。
そのガラクタを後生大事に抱えて、あたかも宝の山のように見せようとしているのが今の知識人たちだ。それを持っていると自分が大きくなったような、強くなったような錯覚に陥る。
余計なものを抱えて人生を重くしてしまっていないだろうか? 重くしてしまう人に、運はめぐってこない。動きが鈍くなり、気づきが遅くなるからだ。抱え込みすぎて新しいものを入れるスペースがないからだ。
私たちの究極の目的はなんだろうか? いきいきと生きることで自分の生をまっとうすることだろう。さまざまなものを体験し学ぶことで成長する。成長の実感を受け止める喜び。そしてそれによって得たもので自分の役割を果たし、自分が受けたさまざまな恩をお返しする。相手を尊重し、助け合う中で真の信頼関係を築く──。
これらがまっとうできたとしたら、私たちはそれ以上の何を求める必要があるだろうか? そしてこれらのことは、私たちがすでに自分自身の中に持っているものだ。私たちも自然の一部。生命力を持ち、自ら成長し、自ら他人と関係を持ち、新たな生命を育んでいく。その能力をはじめから持っている。
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