インドネシア唯一の鉄道メーカー「INKA」の実力 日本と関わりは深いがスイスメーカーと提携

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INKAの設立には日本が大きく関わっている。1940年代後半以降、第二次世界大戦の戦後賠償の絡みで日本の各車両メーカーが貨車、客車を数百両規模でインドネシアに納入していたが、1960年代に入ると、開発の父として知られるスハルト政権の工業化政策で、早くも鉄道車両国産化の議論が持ち上がった。

日本は鉄道車両国産化に引き続き協力することとなり、日本車輌製造が幹事役となって工場の設立から、その後の技術的な部分についても支援を続けてきた。現在、直接の支援は行われていないものの、1999年に設立されたINKA設計部門の子会社、PT. Rekaindo Global Jasa(Reka)はINKAと日本車輛、住友商事の合弁で設立されたものである。

2000年代初頭は「冬の時代」

INKAは長らく、貨車、客車の生産を続けていたが、1990年代に入ると各国のODA案件で電車のノックダウン生産(プロトタイプ編成を除く)も開始。ジャカルタ首都圏向けにボンバルディアの技術でステンレス製電車128両を製造し、INKAはボンバルディアとの関係性を構築した。

1997年に日立の技術協力でノックダウン生産された通称「HITACHI」。非冷房ながらVVVFインバーター制御と最新のシステムを取り入れた。現在はすべて廃車(筆者撮影)

このほか、韓国ヒュンダイの技術で8両、日本からは日立の技術で24両が製造され、そして2001年、ついに悲願であった自前での電車製造に至る。国民電車(KRLI)と名付けられたこの車両であるが、電機品は東芝、設計には前述のRekaが関わるなど、日本色が濃いものだった。

2001年、インドネシア初の国産冷房電車として誕生したKRLI。日本も大きく関わっていた。現在はすべて廃車(筆者撮影)

しかし、アジア通貨危機の影響は甚大で、スハルト政権崩壊後の内政の混乱もあり、この電車の製造はわずか8両のみで終了。INKAによる電車の製造自体もその後10年近くストップすることとなった。加えて、鉄道事業者側でも予算不足などにより十分なメンテナンスができず、この年代に導入された電車は日本から導入された中古電車に取って代わられる形で、現在はすべて引退している(電気式気動車に改造された一部車両を除く)。

そのような事情もあり、2000年代初頭はINKAにとって冬の時代で、主にインドネシア国内向けの従来設計の客車を年間数十両ずつ細々と製造するのみだった。それでも2006~2010年にかけては、アメリカGEのノックダウン生産でCC204形ディーゼル機関車を30両、独自開発の気動車を50両製造している。この年代の車両はいずれも国費によって運輸省が発注したもので、国策的に存在している会社という意味合いが強かった。

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