五輪延期で日本人が考えるべきスポーツの意義 1年程度の延期は史上初、世界中に衝撃走る

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端的に言って、日本のスポーツ界に欠けていたのは想像力の欠如なのである。

スポーツは、世の中の動きとは無縁では存在しえない。人々の健康的な生活に資するものであり、生活、人生を潤いあるものにするための「手段」にすぎない。QOL(生活の質)が急速に低下するような状況では、スポーツは一時的に停止されるべきものだ。選手や観戦者を大きなリスクにさらしてまで強行すべきものではない。それこそ不要不急だからだ。

これをわかっている欧米のアスリートやスポーツ界は、新型コロナウイルスのパンデミックが深刻化するとともに、迷うことなく声を上げた。

しかし日本のスポーツは「スポーツ道」であり、トップアスリートは「道を追い求める」ものだとされる。文字どおり「命を賭けて」取り組むものだとされる。

そのためには、勉学や他の生活を犠牲にすることもいとわない。そういう空気がいまだに支配的だ。

日本人の多くも「スポーツとはこういうものだ」と思っている。スポーツしか知らないような若者を「一途だ」とか「純粋だ」「根性がある」とか言ってほめそやしてきた。

だから、世界的なパンデミックが起こっても、アスリートは最後まで「オリンピック出場に固執すべきだ」という声が大きくなる。「世界中が大変だから僕は出場をあきらめる」と率先して言う声は少数派だ。

また、日本ではスポーツとは「全生活をかけて精進する」一握りのアスリートのものであり、それ以外は傍観者にすぎない。一般の人々が楽しみでやるスポーツなど、「遊び」であって、物の数ではない。だから一般の人々は「やらせてやりたい」「燃え尽きてほしい」と無責任に言うのである。

「勝ってくるぞと勇ましくちかって故郷(くに)を 出たからは手柄たてずに 死なれよか」は、依然として日本スポーツ界の歌でもある。

ただ、そこまで心血を注ぎながら、日本のスポーツは「お家芸」と呼ばれる競技を除いて、欧米のアスリートにはかなわない。

日本はスポーツ大国ではない

スポーツとは本来、市民一人ひとりのものだ。オリンピック選手から普通のおじさん、おばさんまで、みんなで共有すべきものだ。トップアスリートもその延長線上にいる。スポーツをともに楽しむ仲間として、命の危険があるような状況で、アスリートがスポーツをすることなどありえない、と意識をしなければならない。

このように認識を改めない限り、日本はいつまでも「スポーツ大国」にはなれない。

すでにギリシャから聖火は日本に到着し、26日から聖火リレーが始まる予定だった。復興五輪の名のもと被災地を起点に日本全国を回るプランも休止となり、新日程を定める方針だ。

25日時点では、延期について発表となったものの、開催時期については1年程度とされ、具体的な時期は決まっていない。2020年7月24日開催に向けて進めてきた調整のほとんどが膨大なやり直しを余儀なくされることになる。

ただ、私たち日本人は、スポーツの持つ意義とは何か、オリンピック・パラリンピックを開催する意義とは何か、五輪延期を受けて改めて考えなければいけない。

広尾 晃 ライター

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ひろお こう / Kou Hiroo

1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライターやプランナー、ライターとして活動。日米の野球記録を取り上げるブログ「野球の記録で話したい」を執筆している。著書に『野球崩壊 深刻化する「野球離れ」を食い止めろ!』『巨人軍の巨人 馬場正平』(ともにイースト・プレス)、『もし、あの野球選手がこうなっていたら~データで読み解くプロ野球「たられば」ワールド~』(オークラ出版)など。

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