不登校時代が「私の基礎を作った」と言えるワケ 学童の支援員になった今、思うこと
地元では、祇園に命を懸けている人たちのことを祇園馬鹿と言います(笑)。祇園の始まりは1年の始まり、祇園の終わりは1年の終わりというように、彼らの生活の中心には祇園があります。
日本舞踊を始めてから、7月の終わりにある祇園が私の生活の中心になりました。普段は家ですごしていても、暖かくなってくると「外に出なきゃ」という気分になるんです。
小学5年生のときに児童合唱を始めたことも、大きな転機になりました。この地元の少年少女合唱団では週に1度、市内の小・中・高校生が集まって練習をしていました。
これをきっかけに音楽が好きになって、中学2年生の頃からは毎週のように、地元を拠点に活動するインディーズバンドのライブにも行くようになりました。
過度な手洗いが止まったのは
合唱団のメンバーは市内全域から練習にやってくるし、ライブで知り合った人たちには市外の人、年上の人もたくさんいました。
その人たちは私が不登校だと知っても、「ああ、学校行ってない、そうなん」というリアクションでした。
「ふつう」に接してくれる学校外の友達がいるということ。学校を気にしないでいいということは、あの頃の私にとってすごく安心できることでした。
手洗いが止まらなくなってしまう症状も、居場所ができるにつれてすっかりなくなりました。
『不登校新聞』も、私の見つけた居場所の1つです。小学5年生の頃にネットで新聞の存在を知り、母に頼んで購読を始めました。
そのうち、当時は月に1回行なわれていたチャットにも参加し始めたのですが、地元では圧倒的少数派だった不登校の子どもたちが、「全国にはこんなにたくさんいるんだ!」ということに驚きました。
みんなと話していた内容は、本当に普通の世間話ばかりですが、それでもこのチャットは学校へ行ってない者同士。
その後、当時存在していた「不登校新聞のメーリングリスト」のオフ会で受付をするために、東京にも行くことになりました。
「いつもチャットしてるみんなに会える! 行きたい!」というワクワクが不安を吹き飛ばしてしまったし、「東京へ行くのだから」と初めて携帯電話を買ってもらい、1人で新幹線に乗って東京という遠い場所に行けたことも、当時中学2年生だった私にとって大きな自信になりました。
地元には不登校の子がとても少なかったけど、オフ会の会場はとてもにぎやかで、全国には同じ立場の人がこんなにたくさんいるんだ、ひとりじゃないんだと思えました。
――学校以外の居場所は、どんな存在だったのでしょうか?
私にとっては、成人した今でもとても大切な存在です。祇園の山車の上では20歳頃まで踊っていましたし、その後はほかのまちの山車もひきました。