人を「ハーフ」と呼ぶ人が無邪気にしている差別 日本が多様性を受け入れる前にすべきこと
このメールをくれた昆布悠里さんは、こうも言っていた。知らない人に血筋を尋ねたり、ミックスだとわかれば、ある特徴をその人種に結び付けたりするような、ここ日本では普通だと思われている言葉や態度の無神経さに疑問を持ち始めたのは、私がこの事柄について昨年行った講義に出席したことがきっかけだと。それは日本の多様性についての講義だった。
その講義で筆者は、多様性を受け入れていこうとする前に、もっと根本的な問題に取り組む必要がある、と強調した。その1つは、今の日本社会が、ここで「普通」だと考えられているものと、非日本人やミックスの日本人がどう異なっているかに注目していることだ。
話の中で、日本はお互いの違いに注目するよりも(それは永久に「私たち対あの人たち」という考え方を助長してしまう)、似ている点に注目するように変えたらいいと思うと伝えた。そうすれば、私たちが共通して携えている人間性と可能性が明らかになり、互いにもっと近づけるのではないか、と。
「ハーフ」という言葉が使われる意味
しかし、私たち人類は何世紀にもわたって「それ以外」のやり方をするよう訓練されてきた。だいたいの場合、両親や教師、メディア、それから、そう、国のトップからも、表面的な条件や間違った情報を根拠に、あるグループを「異質」あるいは「特別」と考えるように教え込まれている。
残念ながら、この手の考え方が世界中で起きている差別のようなものにつながる。ここ、日本でも毎日それは起きている。
しかし、まず「自分たちの言葉を疑う」ことから始めれば、心の中に住みついている考え方や信条の問い直しにつながる。それは正しい方向に進む重要な第一歩だ。
例えば、「ハーフ」という言葉を例にとろう。差別の意図はなく、無邪気に使われる場合が多いが、その言葉そのものは一部の日本人を「普通の」日本人と区別したいという思いから生まれたのは明らかだ。彼らの「異常さ」がその日本語には埋め込まれている。
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