原発事故から3年、見捨てられる福島の農家 地元農家を苦しめる賠償制度の理不尽
放射性物質が稲に移行するのを防ぐための対策も12~13年に実施された。その内容はといえば、吸収抑制対策の塩化カリウムや放射性物質を固定するためのゼオライトの水田への大量散布だった。
仁志田昇司・伊達市長名で稲作農家向けに出された13年3月25日付の事務連絡文書では、ゼオライト散布などの対策を実施しなかった場合には、「水稲作付けが翌年度以降もできなくなります。作付けした場合は青刈りをする場合があります」「作付けしても全袋検査ができないため、飯米や出荷ができなくなります」との記述があった。法的根拠はないものの、「方針に従わなければ米作りを認めない、というメッセージだ」と多くの農家が受け止めた。
そうした取り組みを条件に、13年には、田んぼ1枚ごとに作付け状況を細かく管理する「全量生産出荷管理区域」として、作付け再開が認められた。14年には農家ごとに管理する「全戸生産出荷管理区域」に基準が緩和された。とはいうものの、放射能汚染対策は続けざるをえない。農業用のため池の除染はほとんど手つかずで、水底には高濃度の放射性物質が沈んでいる。
にもかかわらず、稲作農家への賠償が打ち切られようとしている。その理由について伊達市農政課の担当者は、「食品衛生法上の基準である1㌔㌘当たり100ベクレルを上回るコメが見つからなかったため」と言う。同担当者によれば、14年に伊達市の検査場で検査した約19万俵のうち、すべてのコメが1㌔㌘60ベクレル以下の数値だった。このことから収穫されたコメは「安全」と判断された。その一方で、吸収抑制対策実施の基準として設定された同25ベクレルを上回るコメが見つかったことから、14年も放射能汚染対策として塩化カリウムの散布が続けられる。
暗転した有機農業
それでも、賠償があっただけ、コメはましかもしれない。とりわけ理不尽な扱いを受けているのが、野菜作りを中心とした零細農家だ。小国地区で大根や白菜などの野菜作りをしてきた佐藤吉雄さん(71)は、取れた野菜を子どもや親戚に分け与えていたが、原発事故をきっかけに送り先がなくなった。その反面、販売実績がなかったため、賠償の対象外とされている。野菜畑は除染の対象にもなっていないという。
福島第一原発から半径15~30㌔㍍に位置する田村市都路地区の農業も、原発事故で大きな打撃を受けた。
都路地区のうち、原発から半径20㌔㍍圏内は立ち入りを厳しく制限される「警戒区域」(現在は避難指示解除準備区域)に指定された一方、20~30㌔㍍圏は11年8月末まで「緊急時避難準備区域」とされた。そこでは住み続けることが認められたものの、農家は窮地に立たされた。
福島第一原発から約25㌔㍍の山あいに自宅を持つ渡辺ミヨ子さん(73)もその一人だ。現在は放射線被曝を避けるために、原発から約45㌔㍍離れた同じ市内の船引町にあるアパートで避難生活を続けている。
渡辺さんは原発事故以前、減反の対象だった水田に梅やナツハゼの木を植えて、農薬や化学肥料を使わない有機農業を営んできた。「いずれは二人の息子のどちらかに跡を継いでもらうのが夢だった」(渡辺さん)。
原発事故前までは有機農業は順調だった。渡辺さんが作った自家製の梅干しは農協の直売所やスーパーでも評判が高く、年々、売り上げが拡大していた。ナツハゼの実で作ったジャムはブルーベリーを上回る健康効果のあることが福島県立医科大学の研究によって報告されたこともあり、「売れ行きはとてもよかった」と渡辺さんは話す。
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