ガヴリーロフは、幼馴染のポポフを訪ねた後、遺書をしたためる。翌日、手術で開腹した医者は、まったく手術の必要がない状態であったことを改めて確認する。が、「何故か」ガヴリーロフの容体は急変し、そのまま息絶えてしまう。死後開封が命じられていた遺書はポポフのもとに届けられる。そこには「僕は自分の死ぬることが分かつてゐたのだ」と記されてあった。
日本のスパイとして銃殺刑に

ピリニャークに言及した数少ない評論集といえるのが山下武『幻の作家たち』
この短編が何を言わんとしているかは、明白過ぎるほど明白である。スターリンのフルンゼ殺しを強烈にあてこするピリニャークのやり方は、現在でいえば、北朝鮮の御用文芸誌にて、金正恩に張成沢粛清を非難するのと同じくらい大胆不敵といえるだろう。実際、掲載された雑誌は即日発行停止を命じられた。
この時は奇跡的に雑誌の発禁だけで済んだが、運命の女神は彼に微笑んでくれなかった。『消されない月の話』に続き、ベルリンで刊行された『マホガニー』で反ソ作家のレッテルを貼られた彼は文壇を追放される。
そして1937年、2度の訪日が仇となり、「日本のスパイ」なるでっちあげの罪状で逮捕、1938年4月21日に死刑判決、即銃殺刑に処せられたのであった。
ピリニャークは、『消されない月の話』が本国で陽の目を見ないことを予見していたのであろうか。この短編がソ連で発表される直前の1926年3月に来日した際、ピリニャークは米川正夫に『消されない月の話』のタイプ原稿を手渡し、翻訳を依頼した。
その執念の甲斐あって、本国ではほとんど人の目に触れることがなかった幻の『消されない月の話』は1932年、米川訳により春陽堂の世界名作文庫の一巻として刊行されたのであった。
しかし、この春陽堂版『消されない月の話』も、今や極めて珍しく、入手困難という点で戦前の翻訳文学屈指といってもよいほどの幻の書籍となってしまった。かくいう筆者は、かろうじてゆまに書房による復刻版で読むことができたが、その復刻版すら現在品切れで、非常に入手しづらくなっている。オリジナルの『消されない月の話』を入手する――。これが私の探書人生の大きな目標の一つである。
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