上野発着狙っていた「幻のつくばエクスプレス」 「茨城進出」の布石になった鉄道計画の全容
京成は上野から約5kmほど先まで筑波高速の計画ルートで建設し、隅田川の東側(現在の町屋―千住大橋間)から京成線の青砥駅に接続する連絡線を整備することにした。この連絡線も、筑波高速が計画した梅島―松戸間の支線のルートを変更する形で建設手続きを行っている。
こうして1931年12月、日暮里―青砥間が開業。1933年12月には上野公園(現在の京成上野)―日暮里間も開業し、京成はついに都心への乗り入れを実現した。
残るは筑波方面と支線の青砥―松戸間だが、京成は日暮里―青砥間が開業する直前に筑波方面の計画中止手続きを行い、のちに青砥―松戸間の計画も中止した。地磁気観測所の問題が解消できなかったこともあったろうが、京成にとっては都心に乗り入れできればそれでよく、筑波への進出に強い興味はなかったのだろう。京成白鬚線も別ルートでの都心乗り入れが実現したためか、開業からわずか8年後に廃止された。
計画再開に向けケーブルカー買収?
ただ、筑波にまったく興味がなかったのかといえば、そうでもないような気がする。たとえば京成は1937年、筑波山のケーブルカーを運営していた筑波山鋼索鉄道(現在の筑波観光鉄道)を傘下に収めている。京成は時機をみて筑波方面への鉄道計画を再開し、ケーブルカーと組み合わせた観光ルートを構築しようと考えていたのだろうか。
戦後の1960年前後にも、京成は千葉から茨城に至る観光ルートの構築を目指し、積極的な事業拡大を図った。このころ傘下に収めたのが、常総筑波鉄道(現在の関東鉄道)だ。直接の関係はないものの、戦前の筑波高速計画が茨城進出の布石になったのかもしれない。
仮に事業拡大の一環として「京成筑波線」が実現していたら、どんな列車が走っていただろうか。東京都心と筑波山を結ぶ観光特急が運行され、京成上野駅のホームでは成田空港行き「スカイライナー」と筑波行き「つくばライナー」が並んでいたかもしれない。
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