上野発着狙っていた「幻のつくばエクスプレス」

「茨城進出」の布石になった鉄道計画の全容

なお、東京市(現在の東京都)は市内交通の市営一元化を掲げ、都心への私鉄乗り入れに反対していた。上野―日暮里間が許可されたのは異例だが、地下線で乗り入れ距離も短かく、市内交通への影響は小さいと判断されたらしい。このほか、筑波高速は梅島(東武線の西新井駅付近)から松戸や船橋に延びる支線も計画し、松戸への支線のみ1929年6月に許可された。

筑波高速のルート(赤)。現在のつくばエクスプレス線(青)と似たルートだ(地図ソフト「カシミール3D 地理院地図」で筆者作成)

この計画には大きな問題があった。筑波山の東側には地磁気観測所があり、人為的に作り出された電流、とくに直流電流は観測の障害になる。そのため、観測所の周辺(半径30km以内)では原則として直流電化できず、筑波高速も谷田部以北の電化は認められなかった。つくばエクスプレス線(守谷以北)のように交流方式の電化なら大きな問題はないが、戦前の日本では交流電化の実績がなかった。

京成が強い関心示した理由

こうして計画は行き詰まり、筑波高速は会社の売却を考える。そもそも、筑波高速は鉄道を建設するつもりなどなく、国から得た鉄道建設の「権利」を別の鉄道会社に売りつけるのが目的だったという説もある。実際、会社のメンバーには「投機筋と言われる人達」(白土貞夫「双峰を目指した幻の筑波高速度電気鉄道」『鉄道ピクトリアル』2006年1月号、電気車研究会)が多かったという。

1929年、筑波高速は東武鉄道に身売り話を持ち込むが、東武はこの話に乗ってこなかった。続いて京成電気軌道(現在の京成電鉄)に接触すると、京成は強い関心を示し、すぐに交渉が始まった。

京成が筑波高速に強い関心を寄せたのは、当時の京成が置かれていた状況に大きな理由がある。

京成は今から110年前、明治末期の1909年6月に創立。現在の千葉県成田市内にある成田山新勝寺の参拝客輸送などを目指し、大正期の1912年より押上駅(現在の東京都墨田区)から千葉、成田方面へ線路を徐々に延ばしていた。

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