上野発着狙っていた「幻のつくばエクスプレス」 「茨城進出」の布石になった鉄道計画の全容
ただ、東京側のターミナルである当時の押上駅は東京都心から外れていて、誘客の面で難があった。そこで京成は1923年以降、東北・上越方面の国鉄ターミナル駅がある上野や、押上の近くにある繁華街の浅草への乗り入れを目指し、昭和初期の1927年10月までに6回、押上―上野間や押上―浅草間の鉄道建設を申請している。
このほか、1928年4月には向島駅(現在の京成押上線・京成曳舟―八広間にあった駅)と白鬚駅(白鬚橋の東側)を結ぶ京成白鬚線が開業しているが、これも将来的には王子電気軌道(現在の都電荒川線)と接続させ、都心に入り込む計画だった。
読売社長も逮捕の疑獄事件に発展
京成の申請は認められなかった。東京市が私鉄の都心乗り入れに反対していたためだ。その一方、京成の押上駅に隣接して旧・浅草駅(のちの業平橋駅、現在のとうきょうスカイツリー駅)を設けていた東武鉄道も浅草中心部への乗り入れを申請し、1924年12月に許可されている。「加藤高明内閣と東京市長の支持基盤でもあった憲政会との人脈」(森口誠之『鉄道未成線を歩く 私鉄編』JTB、2001年8月)が背景にあったようだが、京成は東武に先を越された。
焦った京成は1927年10月の申請(押上―浅草間)に際し、少なくとも10万円をつぎ込み、東京市会の議員などに対して「政界工作」を行った。これが1928年9月に発覚し、当時の京成社長だった本多貞次郎や専務の後藤国彦、読売新聞社の社長で京成の総務部長も務めていた正力松太郎らが逮捕される事態に発展してしまった。
こうした状況の中で、都心乗り入れの「権利」を持っている筑波高速が接触してきたのだから、強い関心を示さないはずがない。両社は1930年に合併し、京成は上野―筑波山間の鉄道を建設する「権利」を手に入れた。
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