歌舞伎町が東洋一の歓楽街になった必然的事情 もとは灰の中から生まれた復興の街だった
1日の乗降客数約350万人と、ギネスブックに認定されていることでも有名な新宿駅。構内の複雑さから「迷宮」とも呼ばれるが、いずれにしても新宿は、この駅を中心として大きな発展を遂げてきたわけである。
ところが『新宿の迷宮を歩く: 300年の歴史探検』(平凡社新書)の著者、橋口敏男氏によれば、明治時代の誕生時には貨物が中心で、乗降客はまばらな田舎の駅だった。それが京王線や小田急線といった郊外電車の開通、あるいは関東大震災を契機として発展を続け、昭和の初めに日本一の駅へと成長したというのだ。
橋口氏がそこまで新宿に精通していることには理由がある。長らく新宿区役所で、まちづくり計画担当副参事、区政情報課長、区長室長などを務めてきたのだ。2016年には公益財団法人新宿未来創造財団に移り、新宿歴史博物館館長に就任している。
新宿駅誕生にまつわるエピソードや、新宿を拠点としたサラリーマンの暮らし、新宿の街ができるまでの歴史、新宿に集った女優・芸術家・文化人の話など、多岐にわたった内容。
今回は第4章「歌舞伎町の謎」に焦点を当て、知られざる歌舞伎町の秘密を明らかにしたい。
歌舞伎町には川が流れていた?
「東洋一の歓楽街」として知られる歌舞伎町だが、かつては西武新宿駅の北側辺りを水源とする蟹川という川が、歌舞伎町1丁目と2丁目の境である花道通りを流れていたというのだから意外だ。
森があり、池があり、川がある街だったというのだ。とはいえ当時はまだ歌舞伎町という名前もなく、新宿三丁目と同じく角筈と呼ばれていた。
そののち、大正9(1920)年に現在の都立富士高等学校の前身である府立第五高等女学校が東宝ビルの場所に創設され、関東大震災以降には少しずつ住宅も建ち始めることに。しかしそれらも、昭和20(1945)年の空襲ですべてが灰と化す。
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