歌舞伎町が東洋一の歓楽街になった必然的事情 もとは灰の中から生まれた復興の街だった
そこで立ち上がったのが、角筈北町会の町会長だった鈴木喜兵衛だ。敗戦の知らせを疎開先の日光で聞いた鈴木は日本の将来を見据え、「観光国家こそ各国に憎まれる心配もなく、敗戦国日本の生き延びる道だ」と考え、同じ町会の人間を説得。「計画復興」を提案する。
計画復興とは、復興協力会をつくり、借地権を一本にまとめ、土地を自由にすることを地主から任せてもらい、都市計画で新しく道路をつけなおし、区画を整理してから、地割して建築させようというもの。世間がまごまごしている間に、道義的な繁華街に仕立てようという計画である。
かくして8月23日には、復興計画書を町会員に発送。10月の半ばごろには、東京都の石川栄耀都市計画課長と計画に関する具体的な打ち合わせを行ったというのだから、かなりのハイペースで事を進めたことになる。
ちなみに初期の計画では、大劇場2、映画館4、お子様劇場1、演芸場1、大総合娯楽館1、大ソーシャルダンスホール1、その他ホテル、公衆浴場を配するというものだったという。かくして74年前、現在の歌舞伎町の原点ができあがったのである。
歌舞伎町の名付け親は?
歌舞伎町の名付け親は、上でも名前が出た東京都の石川都市計画課長。「歌舞伎劇場ができるなら、歌舞伎町と名付けよう」ということから、昭和23(1948)年に角筈1丁目の北半分とその北に隣接する東大久保3丁目の一部を併合して成立したのだった。
10月23日には第1回復興協力会総会が開かれ、鈴木はこんなあいさつをしている。
お客様の立場になって商売をする「道義的繁華街」にこだわっているところからは、鈴木の熱意がはっきりと確認できる。いずれにしてもわずか20日あまりで地主の協力を得、借地権の解放の見通しをつけ、計画を実行できるようにしたのだから大したものだ。
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