欧州車エンジニアとの対話に残る強烈な記憶 1980年代、彼は祖国から日本へとやってきた

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「われわれもいいレベルとは思っていませんでしたが、あまり気にはしていませんでした。でも、岡崎さんのご指摘で目が醒めました。このままでは今後の競争に負ける。そこで、今回のお願いになった次第です」とは彼の言葉だ。

僕はエンジニアではないし、メカニズムにも詳しくない。だから、原因は推測できても、それには触れず、ひたすら正確に現象を伝えることに終始した。

彼もそのほうがよかったようで、「迷うことなく、現象だけをしっかり確認することができました。会社に戻ってからの作業も早く進むでしょう」と感謝の言葉をくれた。

不快なこもり音も振動も見事にクリアされていた

作業は1週間の予定だったが5日間で終わった。残りの2日はノートをバッグにしまってもらい、「僕の好きな東京」を案内。疲れを癒やしてもらった。

大きな宿題を背負ったにもかかわらず、彼はとても清々しい気分だったようで、2日間の観光も本当に楽しそうだった。

そのわけを聞くと、「ええ、重い荷は背負いましたが、イメージ的には解決の道筋はなんとなく見えています。きっとご期待に応えられると思います」と答えてくれた。

それから1年半ほど後に出た新型車で、彼の言葉は立証された。不快なこもり音も振動も見事にクリアされていた。2流か3流でしかなかった、そのメーカーの静粛性/快適性は、一気に1流ゾーンにまで引き上げられていた。

多くのクルマの開発/改良に関わってきたが、これは強く記憶に残る思い出になっている。

(文:岡崎宏司/自動車ジャーナリスト)

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