オスマン帝国がキリスト教徒と共生できた理由 イスラム世界における共存と平等を読み解く

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とはいえ、長いイスラム世界の歴史のなかで、非ムスリムへの迫害や不寛容がなかったわけではありません。オスマン帝国と同時代の王朝であれば、エジプトのマムルーク朝、イランのサファヴィー朝、インドのムガール朝では、領内の非ムスリム臣民を迫害し、改宗の強制や追放が行われた時期がありました。

13世紀のシチリア王国においてムスリムが、あるいはレコンキスタ後のスペインにおいてユダヤ人が被ったような出来事が、イスラム世界でも起こっているわけです。

オスマン帝国でも、17世紀には、カドゥザーデ派とよばれるいまの原理主義者に似たグループが力を持ち、権力者と結びつきました。この時期、イスタンブルの中心部にあったユダヤ教徒の居住区を郊外に移転させる、キリスト教徒臣民の改宗を推奨するなどの施策が行われています。

ですから、「イスラム世界=共存」が、いつでもどこでも成り立つわけではない、やはり歴史的な条件への依存度は大きい、ということは強調しておきたいと思います。

とはいえ、オスマン帝国において、他王朝で見られるような過度の迫害が起きなかったのは興味深いことです。これについては、歴史的に非ムスリムの役割が重要だったこと、領内の非ムスリム人口が多かったこと、ヨーロッパ諸国とつねに接して交流を持っていたことなどの理由が挙げられます。

つまりオスマン帝国では、非ムスリム共同体との利害調整の機能が、他王朝と比べてうまく機能していたと考えられます。宗教的な最低限の保証があったのを前提として、それに加えての政治的・社会的な要因が重要な役割を果たしたのです。

近代オスマン帝国の試み

イスラム教は、ムスリム間の平等を保証する宗教です。生まれや民族にかかわりなく、ムスリムであれば平等である、というのは、建前ではありますが大きな魅力として作用しました。ムスリムに改宗さえしてしまえば、原則的には平等が保障されるというのは、民族を基準とする国家よりもはるかに柔軟です。生まれついての民族は選べませんが、宗教は(可能性としては)選べるわけですから。

もちろん、こうした平等は、ムスリムのなかだけであったことは注意が必要です。上述したように、非ムスリムにはさまざまな制限が課されていました。ムスリムと非ムスリムとの共存は、原則的にムスリムが優位であるという前提のもとに成立しえたのです。

しかし、19世紀のオスマン帝国では、これまでのイスラム教の原則を大きく揺るがす政策がすすめられます。すなわち、ムスリムと非ムスリムの平等です。

この施策は、1839年に発布された薔薇園勅令、1856年の改革勅令、そして1876年のオスマン帝国憲法をへて実現されます。帝国憲法には、ムスリムと非ムスリムの平等が明記されました。こうした、宗教を問わずすべての臣民を「オスマン人」とみなして平等な権利を付与するという考えを、「オスマン主義」といいます。

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