オスマン帝国がキリスト教徒と共生できた理由 イスラム世界における共存と平等を読み解く
それでは視点を歴史に移して、イスラム教が勃興した時代から、ムスリムと非ムスリムの関係を見ていきましょう。
7世紀にイスラム教が成立すると、新興のムスリム勢力は当時の超大国であったイランのサーサーン朝を滅ぼし、同じく超大国のビザンツ(東ローマ)帝国が支配するシリア・エジプトを征服します。これほど短期間にムスリム勢力が拡大しえたのは、なぜでしょうか。
宗教的情熱と、略奪への経済的動機が、ムスリム軍を強く突き動かしたのは確かです。その一方で、征服される側の人々にも理由がありました。当時のシリアやエジプトには、合成論派のキリスト教徒が居住していましたが、彼らはビザンツ帝国本国からは異端とされ、迫害されていました。
神の言葉による「共存」の保証
これに対してムスリムは、クルアーンやハディースの規定に則って、キリスト教徒やユダヤ教徒を同じ一神教を奉じる「啓典の民」とみなし、彼らの自治と信仰を認めていました。そのため、当地のキリスト教徒は、ビザンツ帝国の支配よりもムスリムの征服をむしろ歓迎したのです。
もちろん、ムスリムは、単なる善意で、キリスト教徒の権利を認めたわけではありません。まず、キリスト教徒は、ムスリム政府に人頭税(ジズヤ)と呼ばれる税金を納める必要がありました。政治参加が制限されたり、教会の新築に制限があったり、裁判での証言能力がムスリムより劣るなど、さまざまな条件も課されていました。
この制度は、オスマン帝国にも受け継がれました。非ムスリム(オスマン帝国の場合は、正教徒、アルメニア教徒、ユダヤ教徒が主要な非ムスリム共同体でした)は、こうした制限を受けいれつつ、帝国政府の庇護のもとで商業や学芸に従事したのです。
スペイン――1492年に完遂したレコンキスタで完全にキリスト教世界となった――において迫害されたユダヤ教徒の集団を、オスマン帝国が受け入れたことは有名です。ユダヤ教徒たちは、その才能を帝国のために存分に発揮し、帝国に富や知識をもたらしました。
自らの領域に異教徒の集団が集住し、共存を実現させた地域は、イスラム世界以外にも存在します。キリスト教世界で有名なのは、シチリア島でしょう。
12世紀に成立したキリスト教国であるシチリア王国のもとでは、アラブ人ムスリムが多数、居住していました。これは、シチリア島を一時期ムスリムが征服していたゆえです。
しかし13世紀にはいると、国王フリードリヒ2世はムスリム共同体を強制移住させ、これを契機としてムスリムは消滅してしまいます。シチリア王国での「共存」は、パワーバランスが崩れるとあっというまに崩壊するという歴史をたどったのです。
これが、イスラム世界との大きな違いです。すなわち、イスラム世界では、非ムスリムの宗教共同体の存在が神の言葉によって保証されているので、共同体の消滅に至るような決定的な弾圧が起きにくいのです。
こうした施策は、マイノリティに一定の権利を保障する点で、現代のアファーマティヴ・アクションと似ています。ただし、現代のアファーマティヴ・アクションは、マイノリティに、マジョリティ以上のポジティヴな評価を与えるわけですから、この点は逆になります。
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