新天皇が「テムズ川の水上交通」を研究した理由 幼少時から「道と中世の交通制度」に強い関心

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無縁の人である聖上人たち宗教者の活躍が際立ったのもそこである。「橋を架け、道路をひらき、船津をつくり、泊を修造」するという仕事は行基・空也以来、「必ずといってよいほど、聖(ひじり)の勧進によって行なわれた」(同書、166頁)。「『無縁』の勧進上人が修造する築造物は、やはり『無縁』の場でなくてはならなかった」(同書、168頁)からである。

「無縁」者には次のよう職種の人たちが含まれる。

「海民・山民、鍛冶・番匠・鋳物師等の各種手工業者、楽人・舞人から獅子舞・猿楽・遊女・白拍子にいたる狭義の芸能民、陰陽師・医師・歌人・能書・算道などの知識人、武士・随身などの武人、博奕打・囲碁打などの勝負師、巫女・勧進聖・説経師などの宗教人」(同書、187頁)。

彼らはそれぞれの職能を生業として広範囲を移動したわけだが、移動の自由のためには関渡津泊・山野河海・市・宿の自由通行の保証を得ていなければならないわけだが、彼らにその保証を与えていたのは天皇であった

「こうした『無縁』の場に対する支配権は、平安・鎌倉期には、天皇の手中に掌握される形をとっていた。多くの『職人』が供御人(くごにん)となっていった理由はそこにある」(同書、188頁)。

海民たちには、古代から天皇・朝廷に海水産物を贄として貢ぐ慣習があった。彼らは「無主」の地である山野河海を生業の場とする。中世にそれらの土地は天皇が直轄する「御厨(みくりや)」となった。その住民たちは天皇の直轄民となり、「供御人」と呼ばれるようになった。海民と天皇はここで「無縁」という空間を媒介として結びつくのである。

歴代天皇のうちで無縁の者たちとのつながりが最も際立っていたのは後醍醐天皇である。後醍醐天皇は「無縁の者」たちをそのクーデタのために動員した。その結果、建武期の内裏には、天皇の直接支配を受ける形で、覆面をし、笠をかぶった聖俗いずれともつかぬ「異形の輩」「悪党」たちが闊歩していた。

だが、無縁の人とのかかわりが深かったにもかかわらず、後醍醐帝と海民の結びつきについては、熊野海賊が軍事的支援をしたという以外には特筆すべき事績が見当たらない。これは後醍醐が日本歴史上例外的な「中央集権的な天皇」であったことと無関係ではないだろう。

すでに見たように、中央政府のハードパワーが強く、海民たちがその完全な支配下にあった時期、例えば律令期や得宗独裁期や建武の天皇親政期、そして明治以後は、海民は政府に中枢的に統御されていた。活動が「官許」されていたわけであるから、海民たちはそれなりの存在感を示していた。だが、それは社会そのものの性格が海民的であることとは違う。日本社会の海民性が際立つのは、中央政府の支配力が衰え、中枢的な統制が弱まった時である。

道と海民

政治的支配の強さと海民の活動がゼロサムの関係にあるという仮説の一つの傍証として五畿七道(ごきしちどう)という古代の交通制度を見ておきたい。

律令時代に五畿七道という行政制度が整備された。七道(山陽道・山陰道・西海道・東海道・東山道・北陸道・南海道)の「道」というのは現在の北海道と同じく行政単位の名だが、古代では、それが道路に沿って展開していた。全長6300キロに及ぶこの道路は幅が6メートルから30メートルあり、「都と地方を結ぶ全国的な道路網であり、その路線計画にあたっては、直進性が強く志向されている」と近江俊秀は書いている(『古代道路の謎』、祥伝社新書、2013年、25頁)。

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