「不倫」と「芸術」との深遠な関係 井上靖の「雪男」に埋め込まれた、不倫愛の清算

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実は、井上は毎日新聞時代から作家として成功を収めるまで(『群舞』出版の直前まで)の16年にわたる愛人がいたという(「愛人」だった白神喜美子が著した『花過ぎ 井上靖覚え書』(紅書房)による)。

あくまでも「白神喜美子の自己申告が本当だとすれば」という留保付ではあるが、初期の井上靖は、彼女が提供する題材をほとんどそのまま小説のネタに用いることもあった。また、彼女に筋書きを話したり、あるいは原稿を読んでもらったりすることで作品をブラッシュアップさせていたという。いわば彼女はゆるやかな意味での共作者であった。

無名時代の彼にとっては、的確な指摘をし、かつ自分を賛美してくれる、審美眼のある彼女は創造の源泉だったのかもしれない。しかし、文壇での地位が確立されてくるにつれ、妻以外の愛人の存在は疎ましいものとなり、『群舞』単行本刊行の2カ月前になって、井上は愛人に一方的に別れを告げたという。

別れの2年前に連載された『群舞』に描かれた「りつ子への思いを断ち切ろうとする田之村」には、遠からぬ将来、愛人との関係に決着をつけようと思っていた井上の心象が投影されているように思える。

 芸術作品の源泉としての「不倫愛」

人妻を慕う、あるいは愛人を囲う。こうした不倫愛が芸術家を支える例は多い。その極北はドイツの大作曲家リヒャルト・ヴァーグナーだ。ドレスデンで革命騒ぎをやらかして指名手配され、命からがら逃げだしたヴァーグナーは、スイスで裕福な商人ヴェーゼンドンクのもとに転がり込み、そこで手厚くもてなされる。

ところが彼はヴェーゼンドンクに恩返しするどころか、ヴェーゼンドンクの妻マティルデと不倫の愛欲にふけり、しかもその不倫愛の成果物として、世界音楽史上の頂点ともいわれる楽劇『トリスタンとイゾルデ』を作曲してしまうのである。人倫の観点からすれば、 ヴァーグナーは史上稀にみる下劣な悪漢だが、究極的名曲『トリスタンとイゾルデ』が人類にもたらした「恩寵」はいくら称揚してもし足りないほど。この『トリスタンとイゾルデ』を産み出したマティルデとの不倫を、対個人のマイナス要素と対人類のプラス要素のどちらで評価すべきか、黒白は中々につけにくいものなのである。

ちなみに懲りないヴァーグナーは、『トリスタンとイゾルデ』を初演した指揮者ビューロウの妻コージマをも寝取ってしまう

しかもよりによってビューロウが『トリスタンとイゾルデ』を初演する直前、コージマはヴァーグナーの子イゾルデを産んでいるのである。ウィーンでは77回にも及んだ綿密なリハーサルの後に「演奏不可能」とされてしまった難曲『トリスタンとイゾルデ』を、ミュンヘンの歌手とオーケストラを必死に叱咤し続け、ようやく初演に漕ぎ着けてくれた大恩人ビューロウに対する仕打ちがこれである。

ことほどさように『トリスタンとイゾルデ』は徹頭徹尾不倫に彩られた、しかしまぎれもなく人類が生み出した最も美しく最も気高い芸術作品の一つなのである。なんたる矛盾だろうか。ごく最近、日本でもこれとよく似た「16年前の父親は誰だ」といった話題が大いに週刊誌をにぎわせているが、ヴァーグナーの方は不倫で生まれた「芸術上の息子」のスケールが桁違いである。もっとも一市民としてみた場合、ヴァーグナーは史上最低のロクデナシとしかいいようがあるまい。

ヴァーグナーの例はあまりに極端だが、この他に不倫愛が芸術作品に色濃く投影されている例としては、イギリスの作家イヴリン・ウォーの『卑しい肉体』、オーストリアの作曲家マーラーの『交響曲第10番』などが思い浮かぶ。どちらも創作の途中で妻の不貞が発覚し、烈しく打ちのめされながらも必死に立ち直り、再生していく様が生々しく作品に刻印されている。井上の場合は自分が不倫をし、しかも不倫相手を捨ててしまうため同列には論じられないが(不倫を「される」よりも「する」という点で、どちらかとゆ~とヴァーグナー寄り)、「作品への不倫愛の刻印」という点では共通しているといえるだろう。

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