大船、「ハリウッド」になり損ねた鉄道の要衝 松竹が造った映画の街に俳優は住まなかった

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渡辺財閥が最初に開発した住宅街は、JR山手線の西日暮里駅に近い一画だった。ここは、日暮里渡辺町(現・西日暮里9丁目一帯)と呼ばれた。しかし、日暮里渡辺町は全体の面積が約3万坪と小さく、そのために道路の最大幅員も4間以下にしか設計できなかった。スケールの小さな住宅地開発は、渡辺財閥にとって不満が残る結果に終わった。

次なる住宅地開発として、渡辺財閥が着目したのが大船だった。渡辺財閥は住宅地開発を目的とする大船田園都市株式会社を1921年に設立。造成地を“新鎌倉”と命名し、リベンジマッチに挑む。

大船田園都市の社長には、9代目・渡辺治右衛門の3男である渡辺勝三郎が就任。さらに治右衛門の5男・六郎を専務に迎え、六郎は2年間にわたって欧米を視察した。

そのほか、経営陣には都市開発に造詣が深くアメリカ留学の経験をもつ資生堂社長の福原信三を、住宅計画・設計担当者には元宮内省建築技師だった山田馨を抜擢した。

大船田園都市で辣腕を振るった山田は、その後に東京・田園調布を開発した田園都市株式会社にも在籍したほか、富士山麓電気鉄道(現・富士急行)でも建築技師として活躍している。

田園都市開発計画は幻に

陣容を整えた渡辺財閥は、今度こそは理想の住宅地開発を実現できると思われた。しかし、1923年に関東大震災が起きたことで状況は一変する。震災で東京市内が灰燼に帰したことは言うまでもなく、横浜や鎌倉でも甚大な被害を出した。

大船も関東大震災で壊滅し、住宅地の再建はままならなかった。渡辺財閥が手がけた住宅地の売れ行きは滞り、さらに恐慌が渡辺財閥を追い込む。

1927年、大蔵大臣の片岡直温が、破綻していない東京渡辺銀行を破綻したと失言。この発言が引き金となり、同行で取り付け騒ぎが勃発。この取り付け騒ぎが拡大したことで、本当に破綻に追い込まれる。

財閥の根幹をなす銀行が破綻したことで、渡辺財閥そのものが歴史の舞台から退場させられた。こうして、大船の田園都市開発も幻と化した。

大船駅前に次なる開発機運が訪れるのは、震災の記憶も薄らいだ1934年頃だった。震災からの復興が進んだ東京は、明治期よりも過密化が深刻化していた。東京市は、過密対策で工場を郊外に移転させるような都市計画を策定する。東京市の方針により、工場は続々と郊外に移転。それまで純然たる農村地帯だった板橋区や蒲田区(現・大田区)には町工場が次々と移転してきた。

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