大船、「ハリウッド」になり損ねた鉄道の要衝 松竹が造った映画の街に俳優は住まなかった
工場が移転してきたことで、農村から工業都市へと様変わりした東京郊外だったが、工業化に伴うハレーションも起きていた。
蒲田に撮影所を構えていた松竹は、工場の騒音によって映画撮影に支障をきたすようになっていた。そうした事情から松竹は新天地を探し、白羽の矢を立てたのが大船だった。
松竹は約7万坪の土地を購入。また、大船町は地域振興のために約2万坪の土地を松竹に寄付した。
大船田園都市に比肩する不動産を得た松竹は3万坪を撮影所用地とし、1936年に撮影所をオープンさせた。残り6万坪は住宅用地として整備した。この頃より大船は“東洋のハリウッド”と呼ばれるほどに映画産業が活発化した。
当時、大船駅の繁華街は西口側に形成されていたが、松竹の撮影所は東口に誕生した。これにより、映画関係者の出入りを見込んで東口側が一気に開発されていく。松竹は、不動産会社の松竹映画都市株式会社を新たに設立。映画会社としても不動産会社としても大船駅の発展に欠かせない存在になる。
ただ、松竹が造成した映画都市には映画監督や俳優などが居住することはなかった。そのため、“東洋のハリウッド”と呼ばれながらも、本家ハリウッドのような世界的な街にはならなかった。また、ハリウッドセレブが邸宅を構える、ハリウッドに隣接するビバリーヒルズのような高級住宅街も生まれなかった。
撮影所から女子大へ
もちろん、松竹側にも言い分はある。
渡辺財閥と比べれば、松竹の大船駅前開発はそれなりに順調だった。しかし、映画都市を目指していた松竹の目論見は日中戦争の開戦で大きく狂った。日中戦争の開戦を機に、大船駅前には横須賀海軍工廠深沢分工場が開設された。同工場では、魚雷・機雷などの兵器が盛んに製造された。松竹が取得した土地も兵器製造のために芝浦製作所や三菱電機の工場へと転換させられた。これらの工場が軍国・日本を支えるが、土地を奪われたことで松竹は大船の映画都市計画を縮小させざるをえなかった。それでも、松竹は長らく拠点を大船に置いていた。
松竹が大船の発展に大きく寄与したことは言うまでもないが、1995年に松竹は撮影所の一部を映画テーマパーク「鎌倉シネマワールド」へとリニューアルした。同テーマパークは、松竹創立100年周年の記念事業として竣工。しかし、不採算を理由にわずか3年で幕を下ろした。
その後も、大船と松竹の関係は撮影所が全面的に閉鎖される2000年まで続いた。現在、跡地は鎌倉女子大学のキャンパスになっている。
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