喫茶店であいさつを交わすと、チエさんは「今日は、私が(ケンジさんの)通訳役です」とほほ笑んだ。聡明で気さくな印象だが、彼女の訴えの根底には、いつも怒りがあるように見えた。
最近、チエさんが激怒した相手は、ケンジさんをADHDと診断したクリニックの医師。この医師の治療は、薬剤処方が中心で、副作用がひどいと訴えても聞き入れられなかった。このため通院を中断していたが、障害者手帳更新のため、1年ぶりに受診したところ、医師から「今まで何してたの? ちゃんと発達障害の勉強した?」と言われたという。
チエさんは「終始上から目線のため口。私は発達障害のワークショップにも参加して、本も何冊も読みました。だからこそ、カウンセリングをしてくださいとお願いしたのに……。あれでは、ただの薬漬けです」と語る。
チエさんに促され、ケンジさんも薬剤の副作用のつらさについて「不眠と吐き気。3日間、眠れなかったこともありましたし、就職活動のために乗っていた電車の中で吐いたこともありました」と訴える。副作用の影響で自殺未遂をしたこともあるという。通院と服薬をやめてからのほうが体調はいいと、2人は口をそろえる。
もうひとつ、チエさんが納得できないことは、ケンジさんが障害年金を受給できないことだ。年金受給には、①初診日の前日において、加入期間の3分の2以上、保険料を納めている、②初診日の直近1年間に滞納期間がない――というふたつの要件のうち、いずれかを満たしていなければならない。しかし、ケンジさんはどちらも満たしていなかった。
ケンジさんの、いわゆるブラックな職歴を考えると、保険料の支払いを脱法的に逃れていた会社もあるのではないかと、チエさんは言う。「でも、年金事務所で掛け合っても、『記録上、支払われていない』と言うだけで、それ以上、調べてもくれませんでした。障害は一生続くのに、将来にわたって一銭も受け取れないなんて……」。
同僚からは「別れれば?」
怒りの矛先は、自身の両親や職場の同僚にも向かう。ケンジさんのことを正直に打ち明けたところ、両親からは「そんな人には会いたくない」、同僚からは「別れれば?」と言われたという。「理解がない」と憤るチエさんを、ケンジさんが「自分が親でも同じことを言うよ」となだめている。ケンジさんの分も、チエさんが代わりに怒っているように見えた。
チエさん自身の価値観は、ケンジさんとともに暮らすことで、一転したという。「最初は彼に対して『働いてよ!』と怒っていました。なんて自分に甘い人なんだろう、って。でも、今は、できないものは、できないんだな、と。周囲からは怠けているように見えるかもしれないけど、本人はできないことに悩んでいるんだとわかるようになりました」。
ケンジさんの魅力は何ですか? そう尋ねると、チエさんは間髪入れず「イラスト。絵を描く才能です」と答えた。そして、スマートフォンに収めた、ケンジさんの作品の写真を見せてくれた。アニメのキャラクターや浮世絵をモチーフにした水彩画の出来栄えは、確かにすばらしい。特に色彩の濃淡の美しさには驚かされた。
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