第2の理由: ストーンズの自己改革の原点を示す音盤である
ローリング・ストーンズの結成に至る創世記は、胸の熱くなる青春物語です。1960年のある日、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに通う中流家庭の青年マイケル・フィリップ・ジャガーは小脇にチャック・ベリーとマディー・ウォーターズなどのLPレコードを抱えてロンドン行きの電車に乗りました。そこで幼なじみのキース・リチャーズが話しかけたところから伝説が始まります。
そして、ブルースにはまったミックとキースは、ロンドンのマーキー・クラブでエルモ・ルイスと名乗るすご腕のギタリストの演奏に圧倒されます。このエルモこそ天才ブライアン・ジョーンズです。やがて、ブライアン主導でローリン・ストーンズ(The Rollin’ Stones) と名乗るブルース・バンドを結成します。ロンドンの音楽界で頭角を表し、ほどなくデッカ・レコードからデビュー。後は、ロックの歴史そのものです。
リーダーのブライアンが脱退
さて、「万物は流転する」と喝破したのは古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスでしたが、ストーンズ内の力関係も時とともに変化します。当初はブルースをこよなく愛するコピーバンドから始まりましたが、ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)がミックとキースのオリジナル曲を主体とするロック・バンドへと変貌を遂げ、音楽的にも商業的にも成功するとブライアンの居場所が小さくなります。時期を同じくして麻薬禍がブライアンを蝕みます。
1969年6月、ミックとキースは、かつては憧れ、導かれ、共同創設者であったブライアンとの訣別を決意します。実は、『レット・イット・ブリード』の録音が断続的に続いている時期です。ブライアンが記者会見でストーンズ脱退を表明します。その直後、ブライアン・ジョーンズは自宅のプールで溺死します。7月3日のことです。
実は、ストーンズは、もともと7月5日にロンドン中心部のハイド・パークでのフリー・コンサートを予定していました。結果として、これが追悼コンサートになってしまいました。この模様はYouTubeで見れます。ミック・ジャガーが英国の詩人パーシー・ビッシュ・シェリーの詩を朗読する場面は胸が詰まります。
いずれしても、創設時のリーダーを切り捨て、新たな章を開始するという改革の最中に録音されたのがこのアルバムです。ブライアンが参加しているのが「ミッドナイト・ランブラー」と「ユー・ガット・ザ・シルヴァー」の2曲。そして、ブライアンの後任であるミック・テイラーが参加しているのが「カントリー・ホンク」と「リヴ・ウィズ・ミー」の2曲です。正に、バンドが哀しみを乗り越えようとする瞬間を刻んでいます。
しかもデビュー以来のデッカ・レコードとの契約も、この音盤が最後です。この後は、アンディー・ウォーホールのデザインで有名になった自らのレコード会社を設立します。
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