「東大エース」がプロで受けた洗礼と42歳の今 六大学野球・8勝の投手が、2年未勝利で引退

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遠藤は東大の練習を離れ、社会人野球のチームに泊まり込みで出稽古に行くようになった。日本石油(現・JX ENEOS)、東芝、東京ガス、三菱自動車川崎……東大よりもはるかに高いレベルのなかでもまれることで、たくましさが増した。

3年の春に1勝、秋に2勝を挙げた。4年生の春に2勝、通算8勝をマークして、ドラフト会議を待った(3、4年の4シーズンで、34試合に登板)。1999年ドラフト会議で7位指名を受け、晴れてプロ野球選手になった。

しかし、遠藤がプロ野球で日の目を見ることは一度もなかった。一軍登板は2年目のシーズン終盤の1回だけ。二軍でも登板機会は少なかった。

「プロ野球で壁にぶつかりました。高いレベルに入っても順応できると思っていたのに、初めて限界を感じました。僕はプロでたった2年しかプレイできなかった。もう少し時間があれば……自分では成長しているという実感もあって、ここでならもっと成長できると思っていました。

でも、プロ野球はそんな理由で続けられるところではない。一軍でチームを勝たせられるかどうかのところまでいかないと価値がありません。もしあと3年やったとしても、そこまで到達できるかどうか……難しいだろうと自分でも感じていました」

25歳で受けた非情通告

戦力外通告を受けたとき、まだ 25 歳だった。

入団したときから、引退後には球団に残ることが決まっているのではないかという声が、遠藤にも聞こえていた。選手としてではなく、東大卒のキャリアを評価されたのだと。

だが、入団時に引退後の身分を保障する「約束」などなかった。

「僕はその年のドラフトの最下位指名だったし、実力的に劣っていることは認識していたので、そう言われることも覚悟していました。でも、実際にそういうことはありません。あくまで選手としての実力を評価されて入団したと思っているし、選手以外の立場で球団と関わるつもりはまったくありませんでした。純粋にプレイヤーとして、ひとりのピッチャーとして勝負をして、それに敗れただけです」

戦力外通告を受けたあと、ファイターズから職員として球団に残らないかと要請があった。しかし、受けるつもりはなかった。

「プロの2年間は自分にとって大きな挫折でした。まだ若かったし、少し前まで一緒にプレイしていた仲間がユニホームを着ているのに、彼らとどんな気持ちで接すればいいのかわからなかった。挫折感を抱えたままで、いい仕事ができるはずがない。

それまで野球のことだけを考えて、野球だけを見て生きてきたので、視野を広げるためにも自分のお金と時間を使って海外に行こうと考えました」

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