1日5万本売るパン屋が一等地出店しない理由 香川の製麺所をめざした「乃が美」の発想
食べると、たしかに素晴らしい。これは遠くから人が集まるはずだ、と思った。僕自身もその後、大阪からこの店まで何度も足を運んだ。
その後の讃岐うどんブームを経て、さらに有名になったその店の名は「山越うどん」。うどん通の方なら「『釜玉うどん』発祥の店ね」とピンと来られるだろう。この店はもともと製麺所で、卸が中心だったという。しかし麺は当然、打ちたてがおいしい。そこで飲食スペースを併設したところ、あの行列ができた。
「ほんまもんの商売」というキーワードを思うときに必ず蘇ってくるのが、この店の記憶だった。どんな場所にあっても、本当においしい食べ物のもとには人が集まる。1杯150円(当時)の「かけうどん」のために、全国の人が何千円、ときに何万円の交通費をかけて瀬戸大橋を渡るのだ。
あの店のように、お客様に愛され、わざわざ来てもらえる店にしよう……と思ったが、本当に山奥に店を作ってしまうわけにはいかない。そこで、大阪市内の「住宅地」を探したのだ。本通り沿いではない場所で、なおかつ車で遠くから来る人が、数分車を止めていられる程度の道幅がある場所がいい……。そう考えて市内をあちらこちらと見て歩いていたところ、上本町という街に行き当たった。
近鉄の難波駅から2駅、駅は近鉄百貨店直結と、都会ではある。しかし、ミナミやキタのように人が集まる街ではない。駅前のメインストリートから、なかに1本入ってみた。すると、人通りがぐっと少なくなる。そこにおあつらえ向きの物件があった。
この小ぶりなスペースに、工場を併設したパン店を開いたらどうなるだろう。地域の人しか通らない裏路地に、行列ができる様子を頭に思い浮かべた。1年かけて、毎日行列ができる店になった。今でもこの店は「『生』食パン発祥の店」として皆さんに愛していただき、全国104店舗中トップクラスの成績を誇っている。
素人集団だから逸脱できた
パンについて何も知らなかった僕らが、なぜここまで多くの方に受け入れられるパン屋を作れたのか、とよく聞かれる。そのつど、「何も知らなかったからこそ、できたんです」と答える。
「乃が美」のパンの開発を手掛けた当社の中井はパンの素人だった。僕もパン店経営の素人だった。それゆえに苦心惨憺したし、開店までは泥縄の連続だったし、その後も常識破りなことばかりしてきた。
でもこれこそが、「誰もしなかったこと」をするための必須の要素だった。経験豊かなプロが考えたら、ここまで無茶はできなかっただろう。僕も飲食店経営のプロだったころ、こんな無茶はしなかった。
しかし、プロが陥る「常識の限界」をいやというほど味わった僕は、この事業を始めるとき、それまでのすべての「当たり前」を捨て、「逆を行こう」と思った。「パンの味だけで勝負しよう」というその覚悟が、セオリーを無視した立地戦略をはじめとする数々の挑戦を可能にしたのだ。
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