渋谷ハロウィン痴漢被害者は自己責任なのか 安田純平、女子体操を声高に叩く人の危うさ

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自己責任論を訴える人の多くは、そんな現実を忘れ、「俺は1人で生きている」という感覚が強い傾向があります。ところが、食材や飲食店も、自動車や鉄道も、テレビやネットも、いろいろな人がいるからこそ作られ、その恩恵を得られるものですし、もっと言えば「ミスしてしまう人がいるからビジネスが成立している」企業や個人も少なくないでしょう。世の中の大半は、「集団あってこそ」なのです。

たとえば、暴飲暴食をして持病を抱えた人や、不注意で大ケガをした人がいたとしましょう。「何でオレたちがその人の医療費を払わなければいけないんだ」と思うかもしれませんが、一方で飲食物の製造者や提供者は利益を得られているという側面がありますし、もちろん不測の事態も含めて「医療費は保険に頼らず、すべて自分で払え」とは言えないはずです。

「ミスを犯した人と共存する道を探る」のが集団における本来の姿。渋谷のハロウィンなら、「痴漢をどのように抑止するか」「発生してしまったらどのようにつかまえるか」、さらに「女性が安心して楽しめるイベントに変えられないか」などのビジネスチャンスを考えるほうが健全であることは間違いありません。

ビジネスだけを切り取ってみても、「自己責任論でミスを犯した人を見捨てる」というスタンスは、チャンスや売り上げをダウンさせるだけ。そもそも、「話し合いや改善の余地さえ与えない」という姿勢は、争いの絶えなかった戦国時代と変わらない旧時代的なものなのです。

自己責任論を訴える人の指導能力は低い

もう1つ、自己責任論を訴える人に危うさを感じるのは、“私刑”の自覚がないこと。冒頭に挙げた例では、安田さん、剛力さん、女子体操関係者が、自己責任論を超えて名誉毀損にも該当しそうな言葉を浴びせられ、なかには個人情報を拡散されるケースもありました。

ミスを犯したし、問題こそあったものの、犯罪者のように吊るし上げる“私刑”は、その後の長い人生を考えれば、刑事罰よりも重いものがあります。これを言い換えると、「自己責任論を訴えているにもかかわらず、知らない人に浴びせる言葉に責任を持っていない」ということ。「知らない人だから、自分が言ったひどい言葉を忘れられる」という無責任な思考回路を自覚していることもあり、その発言は実際の感情以上に攻撃的なものになってしまいがちです。

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