「恩返しを実行する人は気高い」といえるワケ スーパーボランティア尾畠さんから学ぶこと
私の祖母は晩年、「ありがとう」をひたすら連呼する人になった。若いときから、ことあるごとに「お礼を言うように」と私は教わったが、孫の顔がわからなくなっても祖母は「ありがとう」と言う習慣を忘れなかった。誰に何をしてもらったかはほとんど覚えていなかったように見えたが、こちらが何をしても、即座に「ありがとう」という言葉が飛んできた。
そのせいか、祖母はデイサービスなどのスタッフからも良い評判を得ていて、おかげで良くしていただいた部分も多かったようである。感謝をする人に対してのほうが、そうでない人に対してよりも、気持ちよく介護ができたからなのだろうと思う。
私もリハビリテーション専門医として、障害のある人に対して、何かしてもらったらお礼を言う癖をつけるように指導することがある。一方で、障害のある人のお礼は、「ありがとう」よりも「すみません」が自然に出てしまう人が多いように感じている。
助けてもらうことが多いと、その負い目から、そうなってしまうのかもしれない。そういった場合は、「すみません」よりも「ありがとう」ということを勧めている。
「ありがとう」は社会のためになる
「感謝」は、直接互恵的行為および間接互恵的行為を促進する。そして、感謝をされた人も、感謝をした相手に対してだけでなく、他の人に対しても親切になるだろう。
相手にお礼を言うことは、自分にとっても親切にしてもらうことにつながるし、お礼を言われた人の向社会性が増すのであれば、ひいては社会のためにもなる。障害のせいで、行動や物で返報することが難しくなっても、お礼を言うことのハードルはそう高くない(失語症などの例外を除く)。
そもそも健常者であっても、冒頭に挙げた仏教の教え「懸情流水 受恩刻石」をそのまま実行することは、ハードルが高すぎる。現代にも、釈迦に源流をさかのぼれる治療はいくつかあり、マインドフルネス瞑想などは、むしろ新世代の認知行動療法のひとつとして、さまざまな疾患に対して有効であるという証拠が続々と提出されている。
しかしそれらはいずれも、釈迦の教えの一部を抽出・アレンジしたものであり、その教えの原法そのものを実現できた人はほとんどいない。そして、かつてそれに挑戦した人の多くは、“実践できないこと”に対する心理的負担感にさいなまれていたのではないかと思う。むしろ、大きすぎる負担感があると、心に刻石されるどころか、砕石されてしまうのではなかろうか。
タイ仏教における道徳項目としては、恩返しよりも、自分に対して利得を与えた他者の恩を知り、心に留めるという「感謝心」がより強調されており、恩返しが強調されやすい日本社会における感謝心とは対照的であるという。
日本人との比較の結果は先述したとおりで、負債よりも感謝が向社会的動機を高揚させる傾向が、タイでは日本より強いようである。タイは現在も原法に近い仏教が残っている国のひとつであるが、その教えは実践できるようにアレンジされ、社会規範に溶け込んでいるということなのかもしれない。
社会生活の手本にできる人はいたほうがよいと思う。だが、すべてを見習うのではなく、「同じようにできることだけ見習い」「できないことに対しては心理的負担を感じない」ようにしたほうがよいと思う。そして、障害のある人であっても、ない人であっても、「恩に対してはまず、感謝の気持ちを口にする癖をつけること」を私は勧める。
そうすることで、無理のない「恩返し」と、無理のない「恩送り」が社会に増え、互恵的配慮が広まっていくのではないかと、期待している。
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