勧告を無視して誘拐された人を助けるべきか 「救出とお金の問題」を行動経済学から考える

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それは、誘拐犯のインセンティブを高めてしまうリスクである。

誘拐された人を救出する手段は、国内であれば「犯人を逮捕する」が最優先だが、海外においては日本の警察が犯人を逮捕するのは困難であるし、現地の警察が犯人を逮捕してくれることもそう簡単ではない。そうなると、「身代金を支払って人質を解放してもらう」という選択肢が思いつく。

しかし、ここで再び温かい心を、冷たい頭脳が抑え込む必要が出てくるのである。誘拐犯に金を渡すということは、「悪者に褒美を与える」ことと同じことになってしまう。それは公平にも反するが、悪者が「再び誘拐を実行しよう」というインセンティブを持ってしまうことも問題だ。

しかも、仮に他国の政府が身代金を支払わず、日本政府だけが自国民を救出するために身代金を支払うなら、誘拐犯が考えることは「誘拐するなら日本人がいい。ほかの国民を誘拐すると襲撃されるかもしれないが、日本人を誘拐すれば安全に巨額の金が手に入るから」ということであろう。

そうなると、世界中の誘拐組織が日本人ばかりを狙って誘拐するようになるかもしれない。結局、最初に誘拐された1人を助けたために多くの日本人が誘拐されるようになり、巨額の身代金を支払い続けることになるかもしれない。

途中から「今後は日本政府も身代金は払わないから」と宣言するという選択肢もあるかもしれない。だが、それは「私がバカでした」と世界に向けて宣言するようなものであるから、そうした事態が予想されるなら最初から身代金は支払うべきではない。

「最も好ましい」選択とは?

さて、実際に日本政府は、(少なくとも表立っては)身代金は支払わないが救出の努力は試みるであろうから、ある程度のコストはかかるだろう。それを本人(または相続人)に請求すべきであろうか。一般納税者との公平という観点からは、請求すべきであろう。「救出努力をしてほしいなどと頼んだ覚えはない」と言い張られた場合どうするか、という問題はあるが、本稿はそれには触れないこととする。

仮に何千万円かが請求されたとして、それは海外旅行保険でカバーされるべきだろうか。これも、2つの理由で「否」であろう。1つは、「誘拐されたら政府から何千万円か請求される。しかも、自分が死んだら相続人が請求されるので、親や妻などに迷惑がかかるかもしれない」と考えて渡航を断念する予定だった人が、「保険でカバーされるなら渡航しよう」と考えかねないことである。まさに上記の「モラルハザード」である。

いまひとつは、保険会社の事情である。いま、AとBという保険会社が海外旅行保険を取り扱っているとする。A社の保険は危険地域での誘拐に伴う政府からの請求もカバーするが、B社の保険はカバーしないとする。保険料はB社のほうが安いので、一般の旅行者はB社の保険に加入する。A社の保険に加入するのは危険地域への渡航を計画している人だけである。そうなると、A社の保険は保険料が異常に高くなって、誰も加入できなくなってしまうだろう。A社としても、そうした事態が容易に想像できるため、「危険地域で誘拐された場合は、保険金は支払われません」と契約書に明記するはずである。

結局、全体を通して考えると、政府は危険地域に渡航して誘拐された人を積極的には助けないが、最低限のことはする。その費用は旅行者または相続人に請求する。それにより、「費用を請求されて相続人に迷惑がかかると困るから渡航をやめておこう」と考える人が増える。それが最も好ましい、ということになりそうだ。最後に繰り返すが、誤解されないようにお願いしたい。あくまで本稿は温かい心を封印して冷たい頭脳で考えれば、ということであるので(なお、本稿は筆者の個人的見解であり、筆者の所属する組織等々の見解ではありません)。

塚崎 公義 経済評論家・元大学教授

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つかさき・きみよし / Kimiyoshi Tsukasaki

日本興業銀行(現みずほ銀行)入行。主に経済調査関係の仕事に従事。銀行を退職し、久留米大学に移る。2022年に定年退職。著書に『大学の常識は、世間の非常識』など。

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