「新生」千葉駅ビルは衰退する市街地を救うか 7年半を経て「ペリエ千葉」新装オープン
もともと千葉市街は、現在の中央公園から県庁にかけてのエリアが中心だった。1894年の総武鉄道(現:総武本線)開通時には千葉駅が現在の千葉市民会館の横に設けられ、それに接続するように1896年に房総鉄道(現:外房線)が乗り入れた。また京成も1921年に京成千葉駅を現在の中央公園の位置に設けたことで、栄町から県庁前まで南北に中心市街地が形成されていた。
それを大きく変えたのは第二次世界大戦後の千葉市戦災復興計画であった。1946年に策定された同計画により国鉄千葉駅、国鉄本千葉駅、京成千葉駅の移転が計画され、国鉄も輸送力増強の観点や旧千葉駅のスイッチバック構造の解消を目的に計画に同意。国鉄千葉駅は1963年に現在の位置へ移転した。結果として中心市街地は駅から離れたところに取り残される形となる。
にぎわう駅前、衰退する市街地
それでも1990年初頭までは、中心市街地の千葉銀座通り周辺に千葉パルコ以外にも扇屋ジャスコ、セントラルプラザ(元:奈良屋)、十字屋など大型商業施設が建ち並び、活気があった。だが1992年、千葉三越の並びにあった千葉そごうが駅を挟んで中心市街地とは反対側の現在位置に移転し、千葉駅からの人の流れを変化させたことをきっかけとして、中心市街地の求心力は徐々に低下していき、つぎつぎと大型商業施設が閉店していった。
一方で移転前の千葉そごう跡地には1995年にヨドバシカメラが出店し、駅前の求心力が急速に高まっていった。さらに2010年以降には郊外の大型商業施設の出店がさらに加速。パルコや三越が閉店し、ついに千葉の中心市街地に残る百貨店はそごうのみとなった。
こうした千葉のまちそのもの求心力が低下しかねない事態を受け、千葉市では2016年3月に「千葉駅周辺の活性化グランドデザイン」を定め、千葉市街の活性化を行おうとしている。ペリエ千葉を商業コアと位置づけ、周辺の再開発や中央公園や千葉銀座方面への「界隈性賑わい軸」を生み出すというものだ。
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