北朝鮮高官は、なぜ次々交通事故で死ぬのか 不自然なほど多くが事故に巻き込まれている

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北朝鮮で誰かが正式に粛清されたかどうかを確かめる最善の方法は、歴史的な写真や映像がどう扱われているかをチェックすることだ。

金枓奉(キム・ドゥボン、最高人民会議常任委員長)や、朴正愛の姿が写真から消される一方で、南については1953年に朝鮮戦争の休戦協定に署名する写真が現在でも広く使われている。どうやら、南の存在は歴史から葬り去られたわけではないようだ。南が休戦協定に署名する写真はカラー化され、朝鮮労働党の機関紙労働新聞にも繰り返し掲載されてきた。

韓国との窓口だった金容淳

金容淳(キム・ヨンスン)は、1934年に平康(ピョンガン)郡で生まれた。20歳で金日成総合大学の国際関係学科を卒業し、1980年に朝鮮労働党の韓国担当書記となり、以後、数十年間にわたって、この地位を維持した。

1998年に金剛(クムガン)山観光開発で韓国からの協力を取り付けたのは金容淳だ。2000年の南北首脳会談における共同宣言署名の場にも姿を見せている。金容淳は北朝鮮エリートの中でも重要人物であり、韓国に脱北する直前の黄長燁(ファン・ジャンヨプ、元朝鮮労働党書記)とも会合を持っていたとされる。

そして、2003年10月26日、金容淳は交通事故で死亡する。

李哲奉(リ・チョルボン)の経歴は少し変わっている。1980年代初頭以降、警察署長、都市経営相、鉄道省政治局長、江原道(カンウォンド)の党責任秘書を歴任してきた。しかし、2009年12月25日に交通事故死し、そのキャリアは唐突に断たれることになる。

1930年生まれの李済剛(リ・ジェガン)は、1973年に朝鮮労働党中央委員会組織指導部に配属され、2001年7月に同部の第1副部長(組織担当)になった。部長職は空席だったため(金正日が事実上の部長だったとされる)、李済剛はかなりの影響力を手にすることになる。北朝鮮の最高幹部の1人になったのだ。

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