廃止30年、「青函・宇高」鉄道連絡船の歩んだ道 海を越えて鉄道をつないだ船の悲喜こもごも

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南極観測船「宗谷」とともに船の科学館に保存されていた「羊蹄丸」(筆者撮影)

「羊蹄丸」(2代目)も数奇な運命は同じだった。同船は青函航路廃止後に東京の「船の科学館」に売却され、1992(平成4)年夏にはイタリア・ジェノヴァでの「国際船と海の博覧会」にパビリオン日本館として出展された。

帰国後は「船の科学館」に南極観測船「宗谷」とともに係留され保存の道を歩むかと思っていたが、人の心は移り気というか同科学館では持て余し気味になったのか、2011年(平成23)には展示を終了、翌2012年夏から2013年にかけて解体されてしまった。まさしく「涙の連絡船」であった。

青函連絡船は現在、青森に「八甲田丸」、函館に「摩周丸」が保存されている。

過酷な「青函マラソン」

7年前に95歳で他界した筆者の母は昭和初期、家族とともに新天地を求めて北海道の北見に渡った。北陸線の武生駅から青森へ、そして津軽海峡を越えて道内の鉄道を乗り継ぎ5日間の旅だったという。青函連絡船の船底に押し込まれ大しけの津軽海峡を揺られて函館にたどり着いたと聞かされていた私は、青函連絡船というとちょっぴりそのトラウマが残っていた。

青函連絡船には車両航送のために鉄道車両を搭載するスペースが設けられていた。現在も青森で保存されている「八甲田丸」で見学することができる(筆者撮影)

筆者が最も多く青函航路を利用したのは昭和40年代前半以降、北海道の蒸気機関車を追う旅に出るようになってからである。上野から青森行き夜行急行「津軽」「八甲田」の自由席に乗り、連絡船に接続するのだが、列車が青森に到着するやいなや、まだ動いている列車から飛び降りて、連絡船のよい席を確保するため一目散に桟橋に突進する者が多かった。

俗にいう「青函マラソン」であったが、当然若者は勝利し年寄りは敗者となる。これはいかに鉄道輸送華やかなりし時代の光景といえども、筆者には耐えがたかった。当時の国鉄は駅放送で注意するだけで何ら具体的な対策は講じなかった。以後、筆者は渡道の際の連絡船は寝台かグリーン船室を選ぶようになった。これで、ゆったりとした気持ちで船内食堂での「ホタテ定食」「いかソーメン」なども美味しく食べられるようになったのである。

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