廃止30年、「青函・宇高」鉄道連絡船の歩んだ道 海を越えて鉄道をつないだ船の悲喜こもごも

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この台風では、洞爺丸以外にも数隻の連絡船が座礁、沈没した。洞爺丸をはじめ当時の青函航路の船舶は水への密閉が不完全な構造で、浸水した海水はボイラーにまで達し、航行が不可能になり漂流状態になったのが大事故に結びついた原因の一つと言われている。

洞爺丸事故は戦後に起きた「国鉄五大事故」の一つに数えられるが、この中にはほかにも連絡船の事故が含まれている。1955(昭和30)年5月11日に発生した、宇高連絡船「紫雲丸」の沈没だ。霧の中で第三宇高丸と衝突沈没、修学旅行生たち168人が死亡した痛ましい事故で、濃霧と瀬戸内海の船舶混雑が生んだ悲劇であった。

「津軽丸型」の摩周丸(筆者撮影)

洞爺丸の海難事故を契機に、国鉄は青函連絡船の安全を維持するため、戦中戦後に建造された船舶を代替するために強固な構造のいわゆる2代目連絡船を建造した。

その第1号となった2代目「津軽丸」は1964(昭和39)年に就航。以後、「津軽丸型」といわれた十和田丸、羊蹄丸、摩周丸など7隻が就航し、大半は津軽海峡が青函トンネルで結ばれる1988年まで運航を続けた。大雪丸もそのうちの一隻だ。

「第2の船出」は数奇な運命に

函館港を出港する青函連絡船(奥)(筆者撮影)

青函連絡船の廃止後、これらの優秀な船たちは、その性能、安全性を買われて海外に第2の人生を求めて船出し、一部は国内航路などでも活躍した。

1966(昭和41)年に就航した「十和田丸(2代目)」は、青函航路の廃止後に売却されて「ジャパニーズドリーム」と改名し、1990(平成2)年に東京―神戸間のクルーズ船として再デビューした。処女航海のとき、あのときの大雪丸船長も正装で颯爽と甲板に立っていたのが印象的だった。

だが、ジャパニーズドリームはバブル景気に沸いた当時の「バブル長者」を対象とした豪華客船として就航したものの、バブル崩壊による乗客の減少などで就航わずか2年後には運航を停止。その後はフィリピン・セブ島沖のマクタン島に係留され、カジノ船として使用されていたが、オーナーの税金滞納などで営業を取りやめ、最後はバングラデシュの船舶解体場で生涯を終えた。

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