廃止30年、「青函・宇高」鉄道連絡船の歩んだ道 海を越えて鉄道をつないだ船の悲喜こもごも
旧国鉄には、鉄道のほかに「鉄道連絡船」が存在していた。今も広島県にはJR宮島航路が存在しているが、鉄道連絡船の代表格は、青森と函館を結んだ青函連絡船、そして宇野と高松を結んだ宇高連絡船だろう。かつての連絡船、特に青函連絡船は貨物列車を船内に収容して輸送するなど、文字通り海を越えて鉄道輸送を連絡する役割を果たしていた。
長い間、海によって隔てられていた本州と北海道、四国の鉄道を結ぶ役割を担ってきたこれらの連絡船は、今から30年前の青函トンネル開業、瀬戸大橋開通によって役割を終え、その姿を消していった。今回はその最盛期から末路、そして廃止後の船の消息などを交えて振り返ってみたい。
「世界一安全な船」
津軽海峡を結ぶ青函連絡船は1908(明治41)年に、国鉄直営の航路として青森―函館間にイギリス製の「比羅夫丸」によって就航開設された。それ以来、1988(昭和63)3月の青函トンネル開業まで、本州と北海道の鉄道を結び続けた。
筆者は国鉄時代に青函連絡船「大雪丸」の添乗取材をしたが、そのときの船長の言葉が今も忘れられない。
「青函連絡船は洞爺丸事故を教訓とした、世界一強固で安全な船です。この船が洞爺丸と同じ運命をたどることは絶対にありません」
洞爺丸事故とは1954(昭和29)年9月26日、台風による瞬間最大風速50mを超える暴風雨と猛烈な波浪によって青函連絡船「洞爺丸」が沈没、死者行方不明あわせて1155人に及ぶ犠牲者を出した、日本海難史上最大の惨事だ。
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