西洋は「信じる宗教」、日本は「感じる宗教」
山折:それはやっぱり3つの問いにいくんですよ。さっき宗教を信じるか信じないかという話が出ました。やっぱり西洋の一神教的世界においては、神、あるいは神と類似のものを信じるか信じないかが重大な問題なのですが、多神教的世界における日本人にとっては、信じるか信じないかではなく、神々の気配を感じるか感じないか。「感じる宗教」なのです。
「信じる宗教」と「感じる宗教」を分けて考えると、日本人の心のあり方がよく理解できる。山に入れば山の気を感じて、そのかなたに先祖を感じたり、神々や仏たちを感じたりする。お守りをズタズタに切ることができないというのは、たたりがあるという深い深層心理が働くからでね。
何か悪いことが現実に起こると、それは何ものかのたたりだと。神々のたたりだ、死んだ人のたたりだ、生きている人間の怨念がたたりになる。それを気配として感じる。そういう鋭敏な感覚が、逆にわれわれを育ててきた。気配の文化と言っていいかもしれない。
それが日本人の宗教感覚、宗教意識なんだ。と、本当はこういう教え方をしなければならない。それはもうすでに鈴木大拙が『日本的霊性』(岩波文庫)で言っている。
しかし、一神教的な宗教観念が先にポーンと出てくるから、それ以外は全部おかしいということになってしまう。やっぱりわれわれ自身の文化、つまり、「自分とは何か?」を考えるための教養が、ものすごく必要だということです。ここで教養が出てくるんだな。
浄土真宗の果たした意味は何か
上田:日本の宗教は牙を抜かれているところがあります。たとえば仏教における「縁起」にしても、自分がどれだけ生かされているかを異常に強調します。たとえば日本仏教の最大教団である浄土真宗とかでも、親の恩徳、師主・知識の恩徳、如来大悲の恩徳、阿弥陀様の恩徳って、後ろからどれだけ私が恩を受けているのかを強調している。
それはいいのだけど、その恩を受けている主体としての私はどう生きたらいいのかというと、明確な答えがない。「その恩を感じながら、どんなことがあっても我慢して生きなさい。我慢して生きるのはいいんだよ」みたいなノリで説かれることが多いわけです。
「あなたも次の先祖になるのだから、未来の社会を切り開いていく責任があるんだ」というふうな、未来を創造していく主体の形成みたいなものにも結び付かない。親鸞さんとか法然さんとかの師主・知識は断罪され島流しになっても頑張ってきたのだから、その恩に報いるためには、あなたもその覚悟を持って行動しなさい、というのが「報恩感謝」のはずなのですが、いつの間にかその主体の部分がごっそり脱落している。これは真宗に限らず、どの宗派でもそうですね。
「どんなことがあっても、文句を言わずに与えられた場で生きていきなさい」みたいな説法の仕方をして、「南無阿弥陀仏さえ唱えていれば極楽浄土に行けるのだから、恐れず行動を起こしなさい」的な言挙げもしない僧侶が多い。まあ私の知り合いの僧侶たちは、行動派も多いけど、彼らは「他力を頼んでないで、自力だ」と非難されてしまうわけで。
まさにそこで正義が問われないかたちでの、ある種の信心の仕方に丸め込まれている。その欺瞞性もやっぱり見逃すことはできないのではないか。
ここで、あんまり浄土真宗だけの話をすると問題が起きますが、先生は浄土真宗について、そうとう、物議をかもす本を出しているので(笑)、この日本で浄土真宗の果たした意味はいったい何なのかをこっそり伺ってみたい。
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