54歳「がん全身転移」を克服した男が走る意味 死線をさまよい生き延びた先に使命が見えた

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しかし腫瘍(しゅよう)の影は消えず、この年の8月には15時間にも及ぶ大手術で腹部のリンパ節を47個取り出した。5日後、すべてがん細胞の死骸であることが判明し、前途に細い光明が見えてきた。医師は日常生活に戻れればいいと考えていたようだが、大久保は「マラソンに復帰してみせる」と誓っていた。

その直後、またも悪夢が襲う。10月、抗がん剤に伴う薬剤性の間質性肺炎が急速に悪化した。間質性肺炎まで起こせば、5年生存率は2割以下といわれる。医師は「酸素ボンベが手放せない生活になるかもしれない」と告げた。がんの発症や転移の知らせ以上に衝撃だった。当たり前の生活もマラソンも失われるのだ。英子は、「(X線写真で)真っ白く見える肺がパパの模様だと思えばいいし、また走れるかもしれないよ」と、どこまでも明るかった。

集中的な治療の末、間質性肺炎を克服できたが、肺機能の3分の1は失われ、二度と戻ることはないと知った。退院の日、ボロボロの体だったが、とにかく復帰へのスタート地点に立った。

入院期間は10カ月、職場に復帰するまでに1年半かかったが、日本企業に比べて、外資系、特に大久保のいたゴールドマンには、がんであることを公にしやすい雰囲気があり、いわゆるメンター制度もあった。大久保はがんを抱えながら、入退院の合間に出社して仕事の指示を出し、時には病室で、部下や取引先と打ち合わせをすることもあった。

「トップを含めて、上司は『自分たちにできることは?』と声をかけてくれ、がんを経験した社員は相談相手になってくれた」

走れなければ元の自分とはいえない

部長級から幹部級になるという昇進の時期こそ逸したものの、相変わらず、会社に必要とされていた。しかし家庭と仕事を取り戻すだけでなく、マラソンを再び完走したかった。医師は「昔と違う体なのだから、マラソンは無理」と明言したが、走れなければ元の自分とはいえないと考えていた。

だが体力が徐々に回復しても、2年経っても3年経っても、マラソンには復帰できなかった。2010年、ハーフマラソンなら大丈夫だろうと郷里である長野県内の大会に出場したものの、半分の11キロメートルで体が音を上げた。3時間1分台という屈辱的なタイムで最下位、何とか完走だけは果たした。

定期的な通院では、腫瘍マーカーの検査値の上下に一喜一憂していたが、走り込みは強化した。

2012年4月、かすみがうらマラソン(茨城県)のスタート直後、ランニング仲間の安藤一貴は、大久保の姿を見つけて仰天した。たびたび病室を訪れて激励していたが、肺を損傷したと聞き、まさかマラソンに復帰するとは予想していなかった。大久保は力を振り絞り、安藤は、最後は自分のレースを捨てて伴走した。フルマラソンを4時間49分で完走できた。

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