対戦したとき、バッターボックスで速球(ストレート)を待っていた私は、良い当たりの凡打をしました。これ、私の中ではストレートに見えていましたが、実はスライダーだったのです。甘いスライダーにタイミングがたまたま合ったんですね(笑)。
そのくらい非常に高いレベルの野球を経験できたし、当時の自分自身の技術が未熟だったということも身を以て知ることができた。若いビジネスマンの皆さんもぜひ、いろんな経験をしてみてください。若い頃のレアな経験は、絶対に自分の人生に生きると思います。
高卒プロ入りではなく社会人野球の道を選ぶ
この試合から帰国後、高校生としての当然の成り行きで、私は自分の進路について考えました。高いレベルの野球を自分の目で見てきたから、もちろんプロ野球選手になりたいという思いは強くなった。でも同時に、今の自分のレベルで果たしてプロとして成功できるのかという冷静な気持ちも芽生えました。
前回のコラムでもお話ししたとおり、私はこのとき、決して目立つ選手ではなかったのです。甲子園でホームランを打ったり、高校日本代表に選ばれたりしたのは、ラッキーが偶然重なったようなもの。これは謙遜ではなく“実感”でした。
そしてそれを踏まえて今後のことを、両親や当時の野球部の監督といろいろ話し合いました。あとで聞いた話によると、ほかにもプロ野球、大学からの誘いもあったようですが、監督が伏せていてくれました。感謝しています。あのままプロにすんなり入っていたら、もしかしたら今の私はなかったかもしれない。
結果的に私は、野球ができて仕事もして、さらにお給料ももらえる、という社会人野球を進路に選びました。社会人野球で活躍して芽が出なければ、プロ野球選手にもなれないと考えたのです。今だから言えますが、実はこのとき、自分の中でリミットを3年間と決めていました。ダメならスッパリと野球を辞め、実家の精肉鮮魚店を継ぐ覚悟でした。
そうして入社した三菱重工広島。
ここで自分に課したアジェンダ通り、3年目の終わりにプロ入りを後押ししてくれる、大きな出来事が起こるのです。1994年10月2〜16日まで広島県で行われた「第12回アジア競技大会」でした。このお話はまた、次回。なんだか大河ドラマのような展開になってきましたね(笑)!
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