正樹は先物取引で大損をし、貯金がすっからかんになっていた。勤めているのは外資系なので、退職金がない。退職するまでに、貯金額をなんとか元に戻しておきたいと思っているようだった。
「言葉は悪いですけど、“ああ、それであんなにケチケチしていたのか”って、合点がいったんですね。で、そのことを私に伝えてからは、もう虚勢をはる必要がなくなったのか、なんだか彼の様子がどんどんおかしくなっていって」
休日に、都心のビルに行ったときのこと。どこの店舗も人があふれかえっていた。正樹はその光景を目にするや、「ここは人が多くて、気分が悪くなったから、もう帰ろう」と言う。ゆかりがふと彼を見ると、顔から吹き出すように汗をかいていて、見るからに苦しそうだった。「じゃあ、公園に行って、少し休みましょうか」というと、「もう家に帰りたい。帰ろう」の一点張り。そのまま地下鉄に乗って、正樹の家にトンボ返りした。
その日、家に戻ってくると、正樹は沈んだ声で言った。
「最近は、先のことを考えると不安で夜も眠れないんだ。昨日も一昨日も、1、2時間しか眠っていない。このままだと自分が奈落の底に落ちて、ダメになっていく気がする。心療内科を受診したいのだけれど、一緒に付き添ってくれないか」
週が明けて、火曜日に休みを取り、正樹に付き添って心療内科に行った。そのときの様子をゆかりは、私にこう話した。
「私、心療内科に行ったのは初めてだったんですけど、もう待合室には人がいっぱいであふれていた。“ああ、世の中って精神のバランスを崩してしまった人がこんなにいるのか”と、びっくりしました」
別れを決めた決定的な出来事
心療内科を受診後もよくなる兆しはなく、ゆかりには正樹がますます精神のバランスを崩していくように見えた。正樹は不安にさいなまれるのか、ゆかりのメールの返信が遅かったり、電話に出なかったりすると、5分おきくらいにメールや電話を連打で入れてくる。その数が尋常ではなかった。
ある週末、ゆかりは仕事で1泊2日の大阪出張に行くことになった。それを正樹の家で夕食を食べているときに告げると、みるみる不機嫌になり、箸をバンとおいて、自分の部屋に入ってしまった。ドアを力任せに閉め、バタンという大きな音が部屋中に響いたときに、ゆかりはとても悲しい気持ちになったという。
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