「雌伏10年」AIのトップランナーになった男 世界で認められたエンジニア、矢野和男氏
では、全ての事業に貢献できるような何かを、本当につくることができるのだろうか――。半導体の次のテーマを考える時に、矢野が最も悩んだことである。
「特定の事業ドメインに貢献しようとすると、その分野の専門家になる必要があります。しかし、各ドメインにはすでに実績のある技術者が多数活躍している。そこに割り込んだとしても、おそらく提供できる価値には限界があるでしょう。かといって、『全ての事業ドメインに役立ちます』と漫然と言っているだけでは、誰にも信用されません。本当にそういうことが可能なのか、私にもよく分からない時期が続きました。幅広いドメインに適用できるものがあるとしたら何だろうか――。一縷の望みがデータだったのです」
2000年代の半ば、ビッグデータやIoTなどの言葉を使う人はほとんどいなかった。ただ、センサーの小型化・低価格化の方向性は見えていた。現実世界のデータを大量に集めて、コンピュータで処理し、現実世界に自動でフィードバックできれば、面白いことができるのではないか。そんな妄想に近いポンチ絵をつくってみたりした。10年余りを経た今、その妄想は現実のものとなりつつある。矢野は今も、プレゼンなどの機会には当時の絵をほぼそのまま使っている。
1000行のアルゴリズムでマルチドメインに対応
矢野は大学院で理論物理を学んだ後、日立に入社した。このことが、データを扱う上でプラスになったと考えている。
「電気工学や情報工学などを専攻したエンジニアなら、電気やコンピュータといった特定ドメインにこだわる傾向があるかもしれません。しかし、物理は特定のドメインとだけ結び付いているわけではない。抽象度が高く、データを扱う機会も多い。だから、ドメインに対するこだわりも、さほどありません。物理という学問は、AIやビッグデータと親和性が高いのではないかと思います」
抽象的な思考に慣れていることが、特定ドメインに依存しないAIづくりに役立った。矢野らのチームが開発し、2015年秋にリリースされた『Hitachi AI Technology/H』(以下、『H』)は幅広い業種業態に適用することができる。
『H』は金融、交通、流通、物流、プラント、製造、ヘルスケアなど、さまざまな分野で導入され、すでに50以上の事例がある。店舗における顧客単価15%向上、物流倉庫の生産性8%向上、コールセンターの受注率20数%向上など、大きな成果も上げている。
事業ドメイン固有のビジネスロジックを担う企業システム、最適化に向けた提案を行うAIという役割分担により、『H』は非常に小さなサイズでマルチドメインからの要求に対応することができる。
「従来のようなシステム開発とは、全く別の世界。『H』を含めて、世の中にあるほとんどのAIは1000行程度に収まる大きさです。今までの1000行と、AIにおける1000行とでは全然意味が違う。なぜコンパクトにできるかというと、複雑性をデータ側に持たせているからです」
逆に、アプリケーションに複雑性を持たせようとすると、際限なくシステムは巨大化する。世界中で競争が激化するコネクテッドカーを例にとると、すでに一部の高級車は1億行のプログラムを搭載しているといわれる。こうした巨大システムの開発には膨大な数のエンジニアが必要だ。1000行のプログラムなら、1人の天才がつくることもできるかもしれない。矢野の答えはYesであり、Noでもある。
「確かに、1人の天才がアルゴリズムを書くことはできます。しかし、素晴らしい才能を持つ開発者がいたとしても、現物のデータにまみれなければ、そのアルゴリズムに到達することはできないでしょう。さまざまなドメインの現場とそのデータに学び、得られた経験を抽象化する能力が求められます」