(言論編・第一話)民主主義のインフラ
では、日本の民主主義に何が問われているのか。米国と異なるのは、市民の意思、あるいは民(たみ)が主役の本当の民主主義は、日本では実現していない、ということだ。
民主役の社会とは、人ごとのように政治を観客席から眺め、政府や行政にお任せし、分配だけを求めるような社会ではない。市民が自立して、自ら社会の課題にも向かい合い、それを実行する政治を判断して選択する。そんな民主統治の社会である。
だが、米国と同様の課題もある。「公共の利益」は市民が自ら守り、発展させなくてはならない、ということである。
日本の構造改革は格差をもたらした元凶として不人気だが、目指した方向は間違ってはいない、と私は考えている。構造改革こそ民が主役の社会を目指したものであり、個人が自立しリスクをとって挑戦する、それを支える社会に組み替えるのが目的だったからだ。
その進め方が間違ったとしたら、官さえ解体し、あとは市場に任せれば民主導の体制を生み出せると錯覚したことだろう。
官民の生産性の低い部分には様々な既得権益が存在する。それを壊さないと変化は始まらないが、それだけでは十分ではない。
個人の自立や挑戦が機能する基盤を作り出すためには、民が公正に競争できる労働、資本など様々な構造の再設計が必要だが、それと同時に、公共は民が担うという新しい市民社会の設計も進めなくてはならなかった。
だが、残念なことに経済構造の改革はほとんどが骨抜きとなり、「官から民へ」という方向を市民社会の組み立ての視点と合わせて国民に具体的に提起する政治は、今のところ存在しない。
私が、こうした市民を主体とした民主統治の問題を真剣に考え始めたのは、NPOの世界に飛び込む前のジャーナリストの頃だった。
直接の契機は、地方の改革派の旗手として話題となっていた当時の北川正恭三重県知事との出会いである。
「日本は官主主義。納税者が主役でありながら、供給サイドで税をどうやって使うか、ということばかりを考えてきた。民が主体の全く新しいデモクラシーをつくるためには官の意識を変え、徹底した情報公開をやるしかない。これを情報提供から共有、共鳴という概念まで進めたい」
一気に話し始めるのを聞いていて、こう私も挑んでみた。
「民が政治に対して健全な対抗力を持つためには、当事者意識を持った健全な議論の舞台が必要。言論の役割が、そうした民主主義の実現に不可欠ではないのか」
にやりと笑ったのは北川知事だった。
「それこそ、民主主義のインフラやないか」
当時の日本の状況と今の米国の状況は似通っている。当時の日本は危機を先送りしようとし、また何度か改革を頓挫させ、財政の歯止めのない拡大だけを続けていた。
そうした動きに日本の言論は、あまりに無力だった。批判のための議論、議論のための議論では時代を動かす力にはならない。当時の多くのメディアは政局報道に明け暮れ、痛みを伴う改革を政治や市民に問い続けることもできなかった。
その無力感は当時、オピニオン誌の編集長で、日本の構造改革を問い続けていた私にも、重く圧し掛かっていた。
日本の改革と民の自立が問われる中で、どうしたら、当事者意識を持った健全な議論の舞台をこの国に作ることができるのか。
市民としての自立を迫られたのは、むしろ私の方だった。
言論NPO代表。
1958年生まれ。横浜市立大学大学院経済学修士課程卒業。
東洋経済新報社で、『週刊東洋経済』記者、『金融ビジネス』編集長、『論争 東洋経済』編集長を歴任。2001年10月、特定非営利活動法人言論NPOを立ち上げ、代表に就任。
※言論NPOとは
アドボカシー型の認定NPO法人。国の政策評価や北京−東京フォーラムなどを開催。インターネットを主体に多様な言論活動を行う。
各界のオピニオンリーダーなど500人が参加している。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら