半自動小銃を購入したり、人目から隠して銃を携行したりする米国民の権利を擁護することは、気候変動に対する人類の責任を全否定することに似ている。そこではスジの通った議論など意味を持たない。
銃乱射事件でどれだけの子どもが犠牲になろうが、二酸化炭素排出と温暖化の関係を裏付けるどんな科学的証拠が提示されようが、米国の人々が考えを改めることはない。なぜならこれらはどちらも、自らが何者であるかにかかわる問題だからだ。
銃所有がアイデンティティの拠り所に
多くの米国人にとって銃所有は自らのアイデンティティの拠り所となっている。これにはもちろん歴史的背景がある。武器を所有し携帯する権利を保障する合衆国憲法修正第2条が採択されたのは1791年。その少し前に米国は英国からの独立戦争を戦っており、当時の米国民は圧政に直面した場合に備えて自衛する必要があると考えた。抑圧的な政府に対抗できるよう民兵として武装する、というのがそもそもの発想だ。
このようにして米国民という集団に与えられた銃を持つ権利は、多くの米国人にとっては個々人が有する天与の権利にも等しい存在となった。その傾向は特に地方や南部の州で強い。銃を取り上げられようものなら、こうした人々は自らの存在が文化的かつ社会的に抹殺されたと受け止めるだろう。
多くの米国人が抱くこのようなアイデンティティは、米国の国家イメージとは不思議と矛盾する。米国は移民が集まってできた国であり、共通の祖先や文化を持たない。そのため法律が国家的な基盤となっている。多様なバックグラウンドを持った人々をまとめ上げるには、法律による以外に方法がないからだ。修正第2条が法律であること自体、米国が法律の国であることの証しだ。慣行や伝統に重きを置く日本などに比べて、米国が訴訟社会なのも無理はない。
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