上田:そもそも教養とは何なのか、その中でのやはり宗教という位置づけになると思います。
鷲田先生と山折先生がお話になったように、日本の伝統的な教養観というのは、旧制高校時代のいわゆるデカンショ(デカルト、カント、ショーペンハウエル)的なものがあり、田舎から出てきたエリートがデカンショを読みながら、いかに教養というもので自分を武装してエリート然とするか、というところがありました。
しかし、戦後の社会でみんなが大学に行くようになり、そういうものが崩壊していった。ただ、今もう一度、教養というものが必要なのではないかと感じています。私たちが始めたリベラルアーツセンターが東工大に設置されたり、リベラルアーツに人々の関心が集まっているのは、やはり人間の厚みみたいなものがなくなってきたからではないか。
それと、先ほどの山折先生のお話にあったように、自分自身で何か意味を生成していくというか、一人ひとりの主体の中にエロス的なものが欠けてしまっていて、それで都合よくシステムの中に収まっている。そこで過大な負荷もかけずに淡々と生きていって、周りに波風を立てないで生きている。まさに「三無主義」に通じる、ある種のエネルギーレベルの低下みたいなものが、何となく感じられる社会になっているのでしょう。
その中で私は、今、求めれられている教養とは、誰かが与えてくれた意味の体系の中で粛々と生きていくようなあり方ではなく、フリードリヒ・ニーチェが言ったような家畜として生きていく、あるいは既存の牧場の中でモノ言わぬ従順な羊として生きていくようなあり方ではなく、やはり自分自身で新しい価値を生み出していく、あるいは自分自身が意味を創造できる主体になっていける基盤を与えるような教養だという気がします。
そこでの教養とはどういうものか、その中で宗教はどういうふうに取り扱われるべきか、ということでしょう。
教養を身に付けるために最低限、必要な3つの問い
山折:教養を身に付けるためには最低限、3つの問いが必要だと、私は前から言っています。それは「自分とは何か?」「人間とは何か?」、そして「日本人とは何か?」。
この3つの問いに答えるかたちで教養は養われるし、積み重ねていかなければならないし、それが人生そのものの価値観を生み出していく。
今はその3つの問いがうまくかみ合っていない。問い自体が風化してしまっている。その問いに日本の学校教育が十分、立ち向かっているかというと、学校教育自体がその問いを正面から取り上げようとしているようには思えません。
問題は、その3つの問いのどこから始めるかということです。ここ10年、20年ぐらい、ずっと「自分とは何か?」「自分探し」としばしば言ってきたでしょう。あれほど言っておきながら、自分探しがどれだけ教養の蓄積に、あるいは教養の厚みにつながっていったのか、非常に心もとない。
たとえば尖閣や竹島の問題なんかが出てくると、ひょいっとナショナリズムにいってしまうわけです。「日本人とは何か?」をじっくり考えていないところで論じようとするから、浅はかなナショナリズムになってしまう。
では、「人間とは何か?」を考えているかというと、たとえばソクラテス、プラトン、老子以来の歴史的な宗教的価値観をつくり出してきた伝統にどれだけ関心を持つか、学校教育がそれについてかかわっているか。これもお寒いかぎりだ。
そうすると、この3つの問いがずっと空洞化していっているわけです。それなら、どういう教養が必要かというと、リベラルアーツだという。これも西洋産のパターン化した考え方です。何だ、日本の大学もくだらんことをやっているなと私なんかは思う。大学はリベラルアーツなどという言葉を使わずに、もっと個性的な、内部から湧き出るような言葉を発見しなければいけない。どうですか、上田さん。
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