プラザ合意から33年、1985年は何だったのか 失われた20年から抜け出せていない原因は

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では、80年代、あれほど元気でアメリカに迫っていた日本経済が、いったい、なぜ、「失われた20年」というような長期不況に陥ってしまったのだろう。いま私たちは、失われた20年と簡単にいうが、20年に及ぶ長期不況は、主要な資本主義国として、初めて経験する異常な事態だった。日本は20年もの不況によく耐えたというのが、正直なところだ。

1945年8月15日、日本は太平洋戦争に負け、無条件降伏を受け入れた。当時の東京の写真を見ると一面の焼け野原で、いったいどうやって、そこから立ち直ったのかと思うほどだ。しかし、戦後の日本は驚異の経済復興を遂げ、政府の経済白書が早くも1956年に「もはや戦後ではない」と宣言した。1956年は、終戦から11年しか経っていない。焼け野原の状況から、たった11年で、戦前の経済水準を回復したのだ。

ところが、バブルが崩壊した後の長期不況は「失われた20年」だ。日本経済は、太平洋戦争の敗戦から11年で立ち直ったのに、バブル崩壊では20年経っても立ち直ることができなかったのである。今回の長期不況は、日本経済にそれほどのダメージを与えていた。

日本の失われた20年は、バブル経済の崩壊によってもたらされた。バブル経済の時期はいつかというと、88年、89年の2年間のことだ。なぜそういい切れるかというと、その2年間、東証の株価は、24か月連続して上がり続けたからだ。

円高不況の対策に「強力な金融緩和」

実は、バブルの直前、86年から87年の夏ごろまで、日本経済は、かつてない円高不況に見舞われていた。この円高不況で、日本企業はトヨタもソニーも輸出競争力が下がり、政府も経済界も、このままでは日本経済は沈没するのではないかと本気で心配した。そこで政府は景気対策を矢継ぎ早に打ち出し、日本銀行は強力な金融緩和を実施した。これは86年、87年の話だ。しかし、どこかで聞いたような話ではないだろうか。そう。黒田東彦(はるひこ)日銀総裁の「大胆な金融緩和」だ。大胆な金融緩和は、アベノミクスの根幹をなす。

86年、87年は、まず、政府が景気対策を打ち、次に、日銀が金融緩和を繰り返し実施した。ちょうどそこへ、円高のメリットが遅れて効いてきた。原油など輸入品の値段が円高によって安くなったのだ。円高は、デメリットとしてまず不況をもたらしたが、次に、輸入原材料の値下がりというメリットをもたらした。企業にとっては予期せぬコストカットだった。
それがみな合わさって、88年からバブルが始まった。

ではなぜ、それほどの円高がやってきたのか。85年9月21日、22日の土日、ニューヨークのプラザホテルに、アメリカの呼びかけで、日本、アメリカ、西ドイツ(当時)、イギリス、フランスの5か国の蔵相と中央銀行総裁が集まった。G5である。

冒頭で触れたように、当時の日本は活気にあふれていた。欧米諸国に対して巨額の貿易黒字を出し、世界経済でほとんどひとり勝ちといっていいような状況だった。しかし、日本から見れば貿易黒字でも、相手から見れば貿易赤字だ。これにアメリカは不満を持ち、対日批判を強めていた。

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