プラザ合意から33年、1985年は何だったのか 失われた20年から抜け出せていない原因は

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アメリカは、日本の黒字の原因は、行きすぎた円安だと分析し、それまでの円安を円高に転換しようと考えた。円相場は、85年8月に1ドル=240円前後だった。いま振り返ると、よくそんな円安だったものだと、改めて驚く。

アメリカはこれを問題にし、G5の会議を開いたのである。G5は、それまでの円安を円高に方向転換することを決めた。

日本もそれを受け入れた。

これを、「プラザ合意」と呼ぶ。

1ドル=75円はプラザ合意による円高の行き着いた果て

85年9月のプラザ合意は非常に効果的で、その直前まで1ドル=240円前後だった円相場が、12月には200円台という円高になった。翌86年早々には190円台に入り、これが円高不況を呼んだ。
後に、2009年から12年までの民主党政権で、円相場は1ドル=75円という空前の円高をつけた。これは、プラザ合意による円高が行き着いた果ての数字であった。

2017年、18年は、1ドル=110円前後で推移しているが、これも、85年のプラザ合意から、延々と続く円相場なのだ。

85年のプラザ合意で激しい円高が始まり、それが円高不況を呼んだ。円高不況に対応するため政府は経済対策を繰り返して打ち、日銀はどこまでも金融緩和を進めた。そこにちょうど円高メリットが出てきた。それらのすべてが同じタイミングで重なって効果を発揮し、バブルを呼び起こしたのである。バブルは、88年、89年の2年間、ふくれるだけふくれて、パチンとはじけて崩壊し、90年から失われた20年が始まった。

すべては、プラザ合意に始まる。

活力にあふれた日本経済は、プラザ合意を境に、根底から変わり始めた。プラザ合意で日本は、日本経済を弱くすることを自ら受け入れた。それは、日本にとって事実上の降伏のようなものだった。

しかも、ただの降伏ではない。

合意を受け入れるにしても、円高が行きすぎて日本に悪影響が出た場合はG5を再び招集して、行きすぎた円高を止めるとか、合意の内容を再検討するとか、なんでもいいから、条件を提示しておけば、その後の展開も少しは違ったかもしれない。

しかし、プラザ合意によって長く激しい円高が始まり、日本経済が低迷と停滞に向かうとは、このとき、だれも予想していなかった。そのため、プラザ合意を受け入れるとき、日本は、何の条件もつけなかった。

その結果、プラザ合意は、日本経済の無条件降伏となったのである。

実のところ、当時の日本には、プラザ合意が無条件降伏になるとの認識はまったくなかった。それどころか、プラザ合意を主導したアメリカにも、そこまでの認識はなかったと思う。では、日本はなぜ、プラザ合意を受け入れたのか。合意を拒否することは不可能だったのか。合意を受け入れた後、日本経済はどのように変わっていったのか。

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