五輪秘話「日本ジャンプ90年間、挑戦」の歴史 「ぶっつけ本番」で好成績!初メダルは?

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じつは日本人が「金メダル」に最も近づいた瞬間が「戦前」にあったのです。

Q9. 「ドイツ大会で大活躍の選手」とは誰ですか?

北海道小樽出身の龍田峻次選手(1914-1991)です。

試合当日、未曾有の大群衆で埋め尽くされた競技会場で、彼は自身の持ち味となる、まるで水面に飛び込むような深い前傾姿勢をかける美しいジャンプフォームで、1本目を73.5m、さらに2本目は出場した14カ国47選手の中で最長となる77mの飛距離をマークしました。

このとき、飛距離の合計だけをみれば、なんと同種目で金メダルだったノルウェーの選手を上回っていました。しかし、彼のメダルへの夢は惜しくも実らなかったのです。

Q10. なぜ龍田選手は、金メダルをとれなかったのですか?

残念ながら、龍田選手は2本ともに着地に失敗、転倒してしまいました。そのため、転倒による大幅な減点により、最終順位はビリから2番目の46位に終わったのです。

しかしながら、龍田選手が大観衆の前でみせた「ビッグジャンプ」はかなりのインパクトだったらしく、大会後に作成された公式報告書において、彼の滑空写真が「メダリストと同列」に扱われ大きく掲載されています。

「1940年札幌大会、44年イタリア大会」は中止に

ちなみに、このときの同種目では全日本選手権連覇経験者の伊黒正次選手が7位に入り、ほかの競技ではスピードスケート男子500mにて石原省三選手が、3位の選手とわずか「0.1秒」差の4位と、惜しくもメダル獲得を逃しました。

女子フィギュアスケートでは、当時まだ12歳の小学校6年生だった稲田悦子選手が出場し、23人中10位に入る健闘もみせています。

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こうして、日本人アスリートがようやく世界を相手に頭角をあらわしはじめたにもかかわらず、やがて第二次世界大戦が始まると、冬季オリンピックは札幌での開催が予定されていた1940年、さらに1944年のイタリア大会が中止となりました。

戦後、1948年に復活したスイスでの大会には、敗戦国の日本とドイツは参加が認められず、日本が五輪復帰を果たしたのは1952年の「第6回ノルウェー大会」からです。

そして、この間に広がった世界との実力の差は、容易には埋まらず、長い低迷期を経て、ついに日本人ジャンプ選手が悲願の金メダルを手にしたのが、冒頭で紹介した「1972年の札幌大会」だったのです。

今年(2018年)は、日本人が初めて参加した1928年の第2回スイス・サンモリッツ大会からちょうど90年。平昌ではどんなドラマが新たに展開されるのか、みなさんとともに日本人選手へ熱い声援を送りたいと思います。

山岸 良二 歴史家・昭和女子大学講師・東邦大学付属東邦中高等学校非常勤講師

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やまぎし りょうじ / Ryoji Yamagishi

昭和女子大学講師、東邦大学付属東邦中高等学校非常勤講師、習志野市文化財審議会会長。1951年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院修士課程修了。専門は日本考古学。日本考古学協会全国理事を長年、務める。NHKラジオ「教養日本史・原始編」、NHKテレビ「週刊ブックレビュー」、日本テレビ「世界一受けたい授業」出演や全国での講演等で考古学の啓蒙に努め、近年は地元習志野市に縁の「日本騎兵の父・秋山好古大将」関係の講演も多い。『新版 入門者のための考古学教室』『日本考古学の現在』(共に、同成社)、『日曜日の考古学』(東京堂出版)、『古代史の謎はどこまで解けたのか』(PHP新書)など多数の著書がある。

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