裕福でなくても、苦労を成功への糧に努力して大成
確かに教育におカネがかかる時代になりました。わずか半世紀前と比較しても、子への教育熱には隔世の感がありますし、大学へ入るまでの費用もまた然りです。あの頃は親の経済力勝負と言うよりは、本人の能力とやる気勝負に比重がかかっていました。今では同じ能力とやる気なら、受験テクニックをおカネをかけて学んだ人のほうが、断然、有利なのは明白です。
けれど先の統計は、それだけではないことも示しています。裕福でなくとも、または苦学して学び、大成された方々が、みな生来優秀だったとは誰も言わないはずですし、彼らがその苦労体験を、成功の糧としておられるのは共通しています。往々にして彼らはその後も強いです。
少なくとも幸いなことに、親の豊かな経済力だけが、子供の進路のすべてを決定しているわけではありません。高額所得者を親に持つ子弟が、必ずしも幸福な人生を送っているわけではないのと同様、何が幸いするかわからないのが現実です。
“裸のお客さん”がくれた贈り物
保険会社などで、子供が大学を卒業するまでにかかる費用は何千万円、という数字がよく試算されますが、私には信じられない数字です。むしろ、昔の人の「子供は自分の食い扶持は、自分で持って生まれて来るものだ」という言葉や、産まれたての息子を前にその伯母が「この裸のお客さん、今は目に見えないけれど、とてつもなく大きなお土産をあなたに持って来ているのよ」という言葉のほうを、今の私は実感しています。
子育てを苦労と思い、子育てに経済問題で潜在的な恐怖を抱いている人もいるようですが、とんでもない。別に高額所得者でなくとも、3人、4人の子育てをしている家庭はザラにあります。それなりに何とかなるのが世の中です。裸のお客さん恐るべしです。どこで「足るを知る」の線引きをするかにもよりますが。
私はこんな時代ですから、縁がなければ結婚しなくとも、また、結婚しても子をもうけなくとも、それぞれの縁と選択だと考えていますが、子供を授からなくてはわからない子供の愛おしさを体験できない分だけもったいないと感じています。子育ては、それほど素晴らしい体験でした。言うまでもありませんが子供は親にとって、「白金も黄金も、子宝に比べれば何ほどのものでもない」と、万葉の時代に、貧窮問答歌を歌った人が詠んだほどの存在なのです。
特に誇れる取り柄もなく、特別な社会活動もしてこなかった私が、今日、一応、世間様に顔を上げて生きていられるのも、子供がしっかり仕事をすることを通じて社会貢献できているからであり、そのことがささやかな矜持となっています。親が子供から受けるものには、計り知れないものがあるのです。これも昔の人が言った「順送り」でしょうか。
無責任に聞こえるかも知れませんが、子育てこそ案ずるより生むがやすしです。そのようにして世の中は回ってきました。子育てを経済面ばかりから考えて、難しく構えすぎないようにね!
※ ミセス・パンプキンさんへの相談はこちら
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