そんな飯田さんはどのように、この人気店をつくりあげたのか。飯田さんの半生を追ってみよう。
ラーメンしか道がなかった
飯田さんは20代前半に、和食の料理人を志して上京。東京のお店で修業した。だが、25歳のとき、実家の営んでいた水産加工会社「飯田商店」に1億円以上の負債があることを知り、湯河原に戻る。そう、「飯田商店」とはもともと飯田氏の実家が営んでいた水産加工の会社の名前だったのだ。
実家の借金返済のため、叔父が営むラーメンチェーン「ガキ大将ラーメン」の湯河原店のFC(フランチャイズチェーン)オーナーとして契約する。
「もともと『ラーメン屋をやりたい!』という思いはなく、東京で和食の料理人をやりたかったけど帰ってこざるをえなくなった。ラーメンしか道がなかったんです」(飯田さん)
FC系の外食店は本部の運営するセントラルキッチンで生産された食材を使うケースが多い。飯田さんの加盟していたFCラーメン店チェーンもスープや麺、具材などは自分でつくらなくてもよく、店長の責務は効率的にお客を集め、さばき、売り上げを高めることにあった。当時は朝9時から翌朝5時までほとんど休みなく働いていたという。
一方、自分のお店の売り上げがだんだん上がっていく中で、飯田さんにはある思いがわいてきた。「自分のラーメンを作りたい」。
ここから飯田さんのラーメン食べ歩きがスタートする。しばらく食べ歩きを続けていたが、ある日、運命の一杯に出合う。それは、神奈川・藤沢にある“ラーメンの鬼”故・佐野実さんの営む「支那そばや本店」(現在は戸塚)のラーメンだ。
「麺にとにかく衝撃を受けました。ラーメンといったらスープだとずっと思っていましたが、麺がこんなに旨いものなんだということを知りましたね」(飯田さん)
その後、「支那そばや」にとにかく通い、その麺の構造や味を研究する。閉店するラーメン屋さんから製麺機を10万円で譲り受け、自家製麺の勉強をスタートさせる。お店の定休日である月曜日に「つけ麺 醤太」をオープンし、自家製麺のつけ麺の提供を始めた。
飯田さんは佐野氏の弟子や「支那そばや」に影響を受けたお店にも通うなど、その後もラーメン食べ歩きを続けた。同じく大きな転機となったのが、神奈川・相模原の「69’N’ ROLL ONE」(現在は尼崎の「ロックンビリーS1」)が出す、鶏と水だけで作ったスープが自慢の「2号ラーメン」との出合いだった。休みの日にとにかく通い、店主の嶋崎順一さんとも交流が生まれる。
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