その後、福岡では『水の中の八月』(石井聰亙監督)に制作部として参加したり、『袋小路に愛は猛烈』『暴力人間』などの自主製作作品を作ったりした。
「福岡で活動するうちに人脈はできましたけど、でもこのまま福岡にいてもらちが明かないなって思いました」
1997年10月、すでに東京に住んでいた先輩を頼り上京した。
最初は居候をしていたが、三鷹台に2万9000円の部屋を借りて住み始めた。
工場や荷揚げ屋のアルバイトをしながら映画を撮った。
福岡時代に出会った近藤太監督と共同監督で『風は吹くだろう』という作品を作った。モキュメンタリーとフィクションを織り交ぜたほろ苦い青春譚だ。
そして、この作品でぴあフィルムフェスティバルの準グランプリを獲得する。
「ぴあの準グランプリはとても良かったですね。次につながりました」
受賞後、プロとして初の仕事が来た。
『ウォーターボーイズ』(矢口史靖監督)のメイキング制作だった。DVDの特別版の付録用の映像だ。
「準備段階から撮影をはじめました。矢口史靖監督率いるプロの映画製作現場を客観的に見られたのはすごく勉強になりました。
『ウォーターボーイズ』の役者の中では、妻夫木聡君や玉木宏君など、いまだに活躍している人たちが多くて、いつも作品を見るたびに頼もしいなと思っています」
自分が作りたい作品とのズレがストレスに…
そしてついに現在の仕事にもつながる、心霊ビデオのドキュメンタリー作品のオファーが来た。
「正直、心霊モノにもドキュメンタリーにもあまり興味はなかったので、数秒だけ迷いました。でもアルバイトして生活するより、映像を撮って生活するほうが絶対良いですから、すぐに決めました」
そこからの2年間は、年間1週間も休めないほど忙しくなった。
心霊ビデオは2~3カ月に1本のペースで撮影をした。その後アダルトビデオの監督のオファーもあり、そちらも引き受けることにした。この段階で、やっとアルバイトをしないでも食べていくことができるようになったが、それでも年収300万円には達していなかった。
身体的にはキツかったが、つねに映像を作っていられたのは楽しかった。ただ、自分が作りたい作品とはズレていた。そのズレがおりのようにたまり、ストレスになっていく。
「2年経った時点で、心霊ドキュメントもアダルトビデオも両方ともやめました。その後はフィクション作品しか撮らないことにしました」
そして『呪霊 THE MOVIE 黒呪霊』『日野日出志の怪奇劇場 怪奇!死人少女』などのフィクション作品を撮った。楽しかったが、全然おカネは儲からなかった。
生活するために借金を重ねて徐々に苦しくなっていく。
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