たとえば、清涼飲料の新製品開発を行うために、いろいろな顧客に話を聞くとする。どういう飲料が好きなのか、普段どんな飲料を飲んでいるのか。質問をしながら、顧客が必要としている飲料の姿を探り出す。ここからは、ある顧客が「昨日はとても暑かったので、炭酸飲料を買って飲んだのです」と言った場合を想定し、考えていこう。
実体の見えない「本心」か「語り」という世界か?
もし、旧来的な直観補強型思考に基づくのならば、最重要になるのは顧客の「本心」、発言が心からのものであるかだ。まずは、発言の「正しさ」を確認するために、昨日の気温、彼が本当に炭酸飲料を買ったか、理由は本当に暑さだったのかを調べることになる。
彼の話の正しさがわかれば、その探索的な発見から仮説を立て、大量にサンプルを集めて、気温と炭酸飲料の売れ行きの関係を調べる。
顧客自身が気づいていない潜在的なものを含めてニーズを探し出し、そのニーズが多くの人々に共通することを証明していく。
しかしこのやり方で仮説を証明することは難しい。繰り返していえば、第一に、相手の本心がどのようであるかを確定する術がない。仮に脳波を測定したとしても、それがすなわち相手の本心であるとするには、まだ距離がある。
第二に、それゆえどんなにサンプル数を増やそうとも、一個一個が嘘か本当かわからないのだから、みんながそう思っていそうだという以上のことはわからない。
これに対して、本質直観では大事なポイントが変わる。重要になるのは、その顧客の「語り」だ。それが本心かどうか、客観的かどうかではない。その語り自体が、まずは一つの完結した世界だと見なされる。彼が「暑い」ということと、「炭酸飲料を飲む」ということを因果関係で結んだ理由は、外部ではなくこの(彼の)中にあるのだ。
ここでもう一つ重要なことは、彼の語りが、ほかならぬ僕たちに向けて行われたということである。このことは、その理由がすでに、彼一人のものではなく、彼と僕たち、さらには僕たちが信じる多くの常識や日常的な理解に支えられているということを意味している。
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